法規
日本国憲法20条3項が政教分離原則を定めることから、国家の宗教的中立性を保つため、国の儀式として行われる「大喪の礼」は、神道や仏教含む特定の宗教による儀式とされない(無宗教)。
皇室の私的な儀式とされた「大喪儀」は、明治天皇以降は皇室祭祀の神道儀礼に則って執り行われている。歴史的に皇室の葬儀は、飛鳥時代・奈良時代 - 江戸時代まで仏教寺院にての仏式の葬儀が行われていたが、1870年(明治3年)1月30日、孝明天皇の三年祭の際に、般舟院と泉涌寺で法会が営まれたのち宮中で神式の儀式が復古され、以後、神道式で執り行われるようになった。
現日本国憲法下において「政教分離原則」に基づく区別は、1989年(平成元年)2月24日に行われた昭和天皇の葬儀の時に定められ、皇居から葬場が設営された新宿御苑までの葬列、葬場における儀式の一部、新宿御苑から墓所が設置される武蔵陵墓地までの葬列が「大喪の礼」とされた(平成元年内閣告示第4号『昭和天皇の大喪の礼の細目に関する件』竹下改造内閣)。同時に皇室の私的な儀式として「大喪儀」を行うという形式がとられた。
旧皇室典範下



明治天皇
1912年(明治45年)7月30日0時43分(実際は7月29日22時43分) 糖尿病に伴う糖尿病性腎症(慢性腎不全)による尿毒性昏睡(意識障害)と多臓器不全のため明治宮殿奥宮殿の御常御殿御座所で崩御した明治天皇(第122代天皇)の大喪儀は、同年(大正元年)9月13日から9月15日まで執り行なわれた。
崩御当日の7月30日、政府は天皇が朝政に臨まない「
8月5日には大喪の期日が、8月6日には陵所造営地が「京都府紀伊郡堀内村大字堀内字古城山 伏見城本丸跡」に決まりそれぞれ告示。8月5日には内槽を銅製の御棺(外棺)に密封する「
大喪当日の9月13日は9時から、
二重橋から馬場先門までは20メートル間隔で高さ6メートルの
葬場殿の儀・陵所の儀
「葬場殿の儀」は23時15分から翌9月14日0時45分まで執り行われ、葬場殿に御饌21台を献じ、幣物を供える。霊柩の前に進んだ天皇が拝礼し
桃山仮停車場では八瀬童子104人が奉迎し、霊柩列車から桃山駅仮屋内に仮安置された霊柩は
青山葬場殿と轜車は9月15日から11月6日まで、桃山祭場殿は9月18日から11月3日までそれぞれ一般拝観に供される。明治天皇大喪で用いた轜車は現在、東京国立博物館が保管している。11月6日には明治宮殿で「権殿百日祭」、伏見桃山陵で「陵所百日祭」が行われ、「陵所百日祭」には天皇が行幸し参拝。11月8日に大喪使は廃止される。
1913年(大正2年)7月30日、明治宮殿奥宮殿の御常御殿御座所二の間にて「一周年祭権殿の儀」、伏見桃山陵にて「一周年祭山陵の儀」、7月31日、宮中三殿にて「一周年祭後一日
皇太后名代(葬場殿の儀)は竹田宮恒久王妃昌子内親王、天皇名代(陵所の儀)は閑院宮載仁親王、皇后名代(陵所の儀)は閑院宮載仁親王妃智恵子、皇太后名代(陵所の儀)は東伏見宮依仁親王妃周子。
大喪使総裁は伏見宮貞愛親王、大喪使副総裁は渡辺千秋、大喪使祭官長は鷹司熙通、大喪使祭官副長は正親町実正と万里小路通房。
— 1912年(大正元年)9月13日、大葬儀における大正天皇の御誄(おんるい)
嘉仁謹󠄀ミテ
皇考ノ靈前󠄁ニ白ス
皇考ノ登遐シ給ヒシヨリ夙夜夢寢溫容ヲ諼ル能ハス櫬宮ニ殯殿ニ奉饌拜參シテ空󠄁シク靈前󠄁ニ感泣スルコト早ヤ已ニ四十餘日今ヤ伏見桃山ニ斂葬セムトシ轜車ヲ送󠄁リテ此ニ來レリ顧󠄁フニ曩ニ
皇考ノ病革ルヤ上下憂惧シテ天地ニ祈󠄀ルアリ茲ニ其ノ葬儀ヲ行フヤ朝󠄁野悲傷シテ已マス是レ皆ナ國民忠忱ノ發露スル所󠄁ニシテ卽チ
皇考德澤ノ感孚スル所󠄁ナリ此ヲ思ヒ彼ヲ念ヒ痛悼ノ情󠄁倍マス切ナリ嗚呼哀イ哉
主な国の特派使節
ハインリヒ親王 |
イギリス アーサー・オブ・コンノート親王 |
ドン・アルフォンソ・デ・オルレアン・イ・ボルボン親王 |
アメリカ合衆国 特派大使ノックス |
特派大使ジョルジュ・ルボン |
特派大使ニコラス・マレヴスキー・マレヴィッチ |
特派大使侯爵グイッチョリ |
特派大使男爵ラヂスラス・ミュルレル・ド・スツェントギオルギー |
特派使節グスタフ・オスカル・ワルレンベルク |
メキシコ 特派使節ドン・ラモン・ゼー・バチエコ |
特派使節ジャン・ヘルマン・ファン・ロイエン |
スイス 特派使節フェルヂナンド・サリス |
特派使節プラチャムノン・ヂターカー |
ベルギー 特派使節伯爵ジオルジュ・ドラ・ファイユ・ド・ルヴェルゲム |
特派使節アルフレッド・イララサウアル・サニヤルツ |
特派使節伯爵ペー・アーレフェルト・ラウルフィッグ |
特派使節ベー・アンケル |
特派使節フランシスコ・オルチス |
特派使節グスタヴオ・デ・ヴィアンナ・ケルシュ |
特派使節ヘンリケ・オーコンノル・マルチンス |
この他、イギリスの中国艦隊から、海軍儀仗兵500名が派遣された。
大正天皇
1926年(大正15年)12月25日1時25分、肺炎による高熱と呼吸不全から引き起こされた心臓麻痺のため葉山御用邸付属邸御寝所で崩御した大正天皇(第123代天皇)の大喪儀は、1927年(昭和2年)2月7日から翌2月8日にかけて執り行われた。
葉山御用邸本邸は関東大震災で被災し復旧工事中だったため、同年8月10日に葉山入りした天皇は崩御まで付属邸で静養した。
霊柩、葉山から東京還御
大行天皇の霊柩を載せた霊柩馬車は近衛師団の騎兵52名を従え、12月27日16時55分に葉山御用邸本邸表御車寄を
同日、霊柩を仮安置する
1月3日には陵所造営地が「東京府南多摩郡横山村大字下長房字龍ヶ谷戸」に、1月4日には大喪が2月7日に新宿御苑で挙行することがそれぞれ正式に決まり告示。1月5日、霊柩を槻殿から、大喪当日まで安置する
1月17日「斂葬前殯宮拝礼の儀」を実施。同日16時45分、英国留学中の秩父宮雍仁親王が東洋汽船の「サイベリア丸」で帰国し横浜港から東京駅に到着、そのまま参内する。1月19日、殯宮にて「追号奉告の儀」が行われ、大行天皇は「大正天皇」と
大喪当日の2月7日は9時から、霊代を向こう1年間奉安する
葬場殿の儀・陵所の儀
「葬場殿の儀」は21時20分から23時まで実施。23時35分、葬場殿から葱華輦に遷座された霊柩は新宿御苑仮停車場の霊柩列車(大正天皇大喪用に鉄道省新橋工場で新製)に移される。霊柩列車は翌2月8日0時15分に新宿御苑仮停車場を発車し、1時35分に東浅川仮停車場に到着。列車から再び葱華輦に遷座された霊柩は、2時15分に東浅川仮停車場を出発し、2時45分、陵所に設けた祭場殿に到着。そのまま「陵所の儀」が始まり、6時15分、霊柩を玄宮の石槨に埋葬する「陵所の儀・埋柩の儀」が完了する。同日、大正天皇陵は「多摩陵(たまのみささぎ)」と命名。石槨に納める陵誌は閑院宮載仁親王の染筆。
新宿御苑葬場殿と轜車は2月9日から2月28日まで、霊柩列車は2月13日から4月4日まで東浅川仮停車場でそれぞれ一般拝観に供される。多摩陵祭場殿は2月13日から一般拝観が始まり、多摩陵の通年参拝は4月3日から開始した。大正天皇大喪で用いた轜車は現在、宮内庁が保管しているという。5月7日には明治宮殿で「権殿百日祭」、多摩陵で「陵所百日祭」が行われ、「陵所百日祭」には天皇が行幸し参拝。6月30日に大喪使は廃止される。
12月25日、明治宮殿奥宮殿表御座所にて「一周年祭権殿の儀」、多摩陵にて「一周年祭山陵の儀」、宮中三殿にて「霊代奉遷皇霊殿渡御の儀」「皇霊殿親祭の儀」、12月26日、宮中三殿にて「一周年祭後一日大祓の儀」がそれぞれ行われ、大正天皇の御霊を権殿から宮中三殿の皇霊殿に奉遷・合祀し、1年間にわたる殯の儀式は幕を閉じた。
皇太后名代(葬場殿の儀)は東伏見宮依仁親王妃周子、天皇名代(陵所の儀)は秩父宮雍仁親王。
大喪使総裁は閑院宮載仁親王、大喪使長官は一木喜徳郎、大喪使次官は関屋貞三郎と塚本清治、大喪使祭官長は一条実孝、大喪使祭官副長は柳原義光と清水谷実英。
— 1927年(昭和2年)2月7日、大葬儀における昭和天皇の御誄(おんるい)
裕仁敬ミテ
皇考ノ神󠄀靈ニ白ス 恭シク惟ルニ
皇考位ニ在シマスコト十有五年深仁厚澤人心ヲ感孚シタマヘリ一朝󠄁不豫久キニ彌リテ瘳エタマハス其ノ大漸ヲ傳フルニ當リテハ遠󠄁近󠄁爭ヒテ神󠄀祇ニ禱リ其ノ大行ヲ聞クニ及󠄁ヒテハ億兆考妣ヲ喪フカ如シ嗟予小子正ニ諒闇ニ在リ梓宮ヲ拜シテ音󠄁容ヲ想ヒ殯宮ニ候シテ涕淚ヲ灑ク茲ニ大喪ノ儀ヲ行ヒ哭ヒテ靈柩ヲ送󠄁リマツラントス今ニ感シ昔ヲ懷ヒ哀慕何ソ已マン嗚呼哀イ哉
特派大使・特派使節
- 諸外国の特派使節の一覧は、『大正天皇大喪紀要』(外務省外務大臣官房人事課篇・1927年5月刊行)に掲載されている。国旗および役職名は1927年当時のもので、氏名・役職名は『紀要』の記載に準じる。
特派大使ウィルヘルム・ゾルフ(駐日大使) |
イギリス 特派大使サー・ジョン・アントニー・セシル・ティレー(駐日大使) |
特派大使ドン・ペドロ・カルティン・イ・デル・サス・カバイエロ(駐日公使) |
アメリカ合衆国 特派大使チャールス・マクヴェー(駐日大使) |
特派大使ポール・ルイ・シャール・クローデル(駐日大使) |
ベルギー 特派大使アルベール・ド・バッソムピエール(駐日大使) |
特派大使ヂュユリオ・デラ・トレ・ラバーニア(駐日大使) |
特派大使イエー・セー・バブスト(駐日公使) |
特派大使 汪栄宝(駐日公使) |
特派大使ドン・マヌエル・エリアス・ボンヌメーゾン(駐日公使) |
特派使節フィア・チャムノン・ヂターカー(駐日公使) |
特派使節オスカル・アントン・ヘルマン・エーウェロフ(駐日公使) |
特派使節ドクトル・ジョセフ・スワグロウフスキー(駐日公使) |
特派使節ジョゼ・ダ・コスタ・カルネイロ(駐日公使) |
特派使節ドン・ペドロ・リヴァノス・ヴィクニ(駐日公使) |
特派使節ドクトル・マリオ・ルイス・デ・ロス・リアノス(駐日公使) |
| メキシコ 特派使節ホセ・ヴァスケス・スキアフィーノ(駐日公使) |
フィンランド 特派使節グスターフ・ジョン・ラムステッド(駐日代理公使) |
特派使節フウルウッシ・フウアド・ベイ(駐日代理公使) |
ソビエト連邦 特派使節グレゴワール・べセドウスキー(駐日臨時代理公使) |
特派使節シルヴォ・ランヘル・デ・カストロ(駐日臨時代理公使) |
スイス 特派使節アルフレッド・ブリュンネル(駐日臨時代理公使) |
特派使節ヴァツアウ・イエンヂェエウィッチ(駐日臨時代理公使) |
特派使節エル・グロエンヴォルド(駐日臨時代理公使) |
特派使節アイナル・ヴェルウム(駐日臨時代理公使) |
バチカン ローマ教皇特派使マリオ・ヂャルディニー大司教(駐日教皇公使) |
この他、イギリスの陸軍代表エル・アール・ヒル中佐、中華民国十四省討賊聯軍総司令・呉佩孚の幕僚温世珍、オランダ海軍軽巡洋艦スマトラ艦長コンクヘール・ショーレル大佐、東京横浜駐在各国領事らが参列。
現行皇室典範下


根拠法令
昭和天皇
崩御から斂葬まで
1989年(昭和64年)1月7日6時33 分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)による出血性ショック(急性循環不全) のため吹上御所2階寝室で崩御した昭和天皇(第124代天皇)の大喪の礼は、同年(平成元年)2月24日に内閣の主催により行われた。
崩御当日の1月7日9時20分、皇室医務主管兼侍医長高木顕が宮内庁で会見し、病状の経過を報告。10時1分、掌典長東園基文が宮中三殿で新天皇の践祚を奉告すると同時に宮殿正殿松の間で「剣璽等承継の儀」が執り行われ、皇太子明仁親王が皇位を継承。10時、遺骸を仮安置する
1月9日11時、天皇、皇后は宮殿正殿松の間で国事行為の「即位後朝見の儀」を執り行う。同日18時20分、内槽をひと回り大きい銅製の棺(外棺)に密封する「
1月14日、21日にそれぞれ230人が参加し皇居東御苑、新宿御苑にて葬場殿の儀リハーサル。皇宮護衛官は当日と同じ装束を纏い、重量1.5トンの練習用
1月20日10時、「殯宮移御後一日祭の儀」で天皇が
明仁謹んで、御父大行天皇の御霊に申し上げます。 大行天皇には御即位にあたり、国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され、爾来、皇位におわしますこと六十有余年、ひたすらその実現に御心をお尽くしになりました。ここに、追号して昭和天皇と申し上げます。 — 天皇陛下、追号奉告の儀における御誄(平成元年1月31日)
2月5日10時、「殯宮三十日祭の儀」を挙行。2月6日から23日の18日間、皇宮護衛官は輦台を用いて連日葬場殿の儀の練習。2月8日、新宿御苑の葬場殿内輦舎にパーツを搬入し23日までに葱華輦を組み立て。2月9日、「葬場殿の儀」「陵所の儀」で皇太后御名代を務める常陸宮正仁親王妃華子が吹上御所へ参殿し、皇太后に拝謁。2月15日10時、「殯宮四十日祭の儀」を挙行。2月23日11時、陵所が竣功し、武蔵陵墓地で「陵所
葬場殿の儀
「大喪の礼」当日の2月24日7時30分、殯宮にて「斂葬当日殯宮祭の儀」を挙行。夜に開始していた明治天皇・大正天皇の大喪とは異なり、朝から行われる。8時40分、側近奉仕者により霊柩を載せられた奉遷車が殯宮を出発し、9時、宮殿長和殿南車寄に到着。9時28分、霊柩がニッサンプリンスロイヤルの轜車に奉遷され、9時32分霊柩を載せた轜車を中心として組まれた葬列(自動車30台、サイドカー30台の車列、全長800メートル)が、宮内庁楽部による雅楽『宗明楽』と陸上自衛隊第1特科連隊による21発の弔砲に送られ宮殿長和殿南車寄を出発。宮内庁職員、元職員、皇宮護衛官ら300人が宮殿東庭で轜車を見送った。9時35分「轜車発引の儀」が執り行われ、葬列は皇居正門を出門。葬列の出発をもって国家儀式である「大喪の礼」が開式する。
葬列は葬送曲『
10時41分、
「葬場殿の儀」が営まれた後、11時40分幔門は閉じられ鳥居や
新宿御苑に設けられた葬場は面積2万5000平方メートル。風景式庭園東部に設営された241平方メートルの葬場殿は、明治天皇、大正天皇大喪の様式を踏襲しタイワンヒノキで建設。参列席が設けられた4374平方メートルの左
13時37分幔門が開かれ、再びニッサンプリンスロイヤルの轜車を中心とする葬列が組まれ、葬場総門、新宿御苑正門、大京町、四谷四丁目、新宿御苑駅前、新宿三丁目、新宿四丁目、新宿駅南口、西参道口、初台、首都高速4号新宿線初台出入口、高井戸インターチェンジ、中央自動車道調布インターチェンジ、稲城インターチェンジ、国立府中インターチェンジ、八王子インターチェンジ、稲荷坂南、川口川橋、浅川橋、八幡町、本郷横丁、追分町、千人町、並木町、多摩御陵入口、南浅川橋、御陵参道を経て、15時15分、武蔵陵墓地総門に到着。途中、高井戸インターチェンジから調布方面に5.7キロメートルの下り車線脇にあるのり面が葬列通過予定時刻30分前の13時54分、突然爆発。大量の土砂が高速道路路面を塞いだ。首謀者は「大喪の礼爆砕」を掲げていた過激派の革労協狭間派だった。15時14分、葬列は武蔵陵墓地総門に到着する。
■昭和天皇大喪儀斂葬の儀 轜車葬列(皇居~新宿御苑、新宿御苑~武蔵陵墓地)
〈最前列〉白バイ 3台・サイドカー 1台/パトカー/大喪の礼委員(内閣官房長官)/大喪の礼委員長(内閣総理大臣)/警護車/宮内庁長官・式部官長/白バイ5台・サイドカー3台/轜車/白バイ3台・サイドカー4台/昭和天皇側近奉仕者/パトカー/白バイ3台・サイドカー1台/天皇・皇后(侍従次長陪乗)/サイドカー2台/皇太后御名代常陸宮妃 (皇太后宮女官長陪乗)/サイドカー2台/パトカー/皇太子 (東宮侍従陪乗)/白バイ2台/パトカー/礼宮 ・紀宮 /パトカー/常陸宮 /秩父宮妃 /高松宮妃 /三笠宮 ・同妃 /白バイ2台/寛仁親王 ・同妃 /高円宮 ・同妃 /パトカー/親族総代(一)/親族総代(二)/親族総代(三)/侍従・侍医/女官長・女官/侍従・皇太后宮職職員/東宮大夫・東宮侍従長/大喪の礼委員(内閣官房副長官 )/パトカー/白バイ2台〈最後列〉
陵所の儀
陵所では皇室儀式としての「陵所の儀」が営まれる。15時20分、葬列は武蔵陵墓地総門からニッサンプリンスロイヤルの轜車を中心に徒歩列を組み、天皇、皇后以下皇族も表参道・新参道を陵所まで歩く。15時31分轜車が祭場殿に到着。15時34分、霊柩を轜車から奉遷車に載せ移御台に遷移。15時57分移御台ごと霊柩をインクラインで
斂葬当日の2月24日から一周年祭前日の1990年(平成2年)1月6日までの毎日9時、権殿の霊代に供え物をする「権殿
2月25-27日、天皇、皇后は宮殿正殿竹の間・長和殿春秋の間(27日は赤坂御所檜の間)で、スペイン国王フアン・カルロス1世同妃ソフィアら大喪の礼に参列した海外からの弔問賓客65組を複数回の会見、お茶、引見で接遇。2月27日、昭和天皇陵は「武蔵野陵(むさしののみささぎ)」と命名される。石槨に納める陵誌は礼宮文仁親王の染筆。3月2日10時、宮殿表御座所萩の間で、天皇が御帳台から武蔵野陵に向かって先帝を偲ぶ「
3月15日15時、天皇、皇后は宮殿長和殿春秋の間・豊明殿で、昭和天皇大喪儀に参列した各国外交使節団の長およびその配偶者を引見し、茶会を催す。4月16日10時、宮殿表御座所芳菊の間で「権殿百日祭の儀」が、同日15時、武蔵野陵で「山陵百日祭の儀」が行われる。4月17日11時、武蔵野陵に田中直侍従が勅使として差遣され、陵所の本格的な工事開始を昭和天皇に奉告する「山陵起工奉告の儀」を実施。
1990年1月6日11時、武蔵野陵に卜部亮吾侍従が勅使として差遣され、陵所の完成を昭和天皇に奉告する「山陵竣工奉告の儀」を実施。1月7日10時、宮殿表御座所芳菊の間にて「権殿一周年祭の儀」、同日15時、武蔵野陵にて「山陵一周年祭の儀」、宮中三殿にて「皇霊殿奉告の儀」「皇霊殿親祭の儀」、1月8日14時、宮殿正殿竹の間にて「昭和天皇一周年祭後一日御祓の儀」、宮中三殿にて「一周年祭後一日大祓の儀」、1月9日、赤坂御所(御羽車発進時刻に天皇、皇后が宮中三殿皇霊殿の方角を遙拝)と宮中三殿にて「霊代奉遷の儀」がそれぞれ行われ、昭和天皇の御霊を権殿から宮中三殿の皇霊殿に奉遷・合祀し、1年間にわたる殯の儀式は幕を閉じた。
皇太后御名代は常陸宮正仁親王妃華子。
大喪の礼委員会委員長は内閣総理大臣竹下登、副委員長は内閣官房長官小渕恵三、祭官長は永積寅彦、祭官副長は山内豊秋と香川朝男。
「大喪の礼」御式における竹下内閣総理大臣の弔辞本日、ここに大喪の礼を迎え、昭和天皇に
永久 のお別れを告げなければならないことは、誠に哀痛の極みであります。昭和天皇は、六十有余年の長きにわたり御在位あらせられ、この間、我が国は悲しむべき大戦の惨禍、混乱と窮乏極まりなき廃
墟 からの復興と真の独立、比類なき経済の成長と国際国家への発展という、正に激動の時代を経験いたしました。このような時代にあって、昭和天皇は、世界の平和と国民の幸福を心から願われ、常に国民とともに苦難を乗り越えてこられたのであります。特に戦後においては、日本国憲法の下で、日本国の象徴、日本国民統合の象徴として公務に御精励になる傍ら、生物学の御研究にお力を注がれ、その御造
詣 の深さは内外に広く知られるところでありました。また、昭和天皇の清明仁慈の
御 心、公平かつ真摯 誠実なお姿に接して感銘を受けなかった者はありません。その御聖徳は、とこしえに語り継がれ、人々の心の中に生き続けるものと確信いたします。今ここに最後のお別れを申し上げるとき、おすこやかであらせられた御生前のお姿をしのび、悲しみの涙をとどめる
術 を知りません。私たち国民一同は、昭和天皇の
御 心に思いを致し、世界に開かれ、活力に満ち、文化豊かな日本を建設し、世界の平和と人類福祉の増進のため更に最善の努力を尽くしてまいります。御霊 の安らけく静まりたまわんことをお祈り申し上げ、ここに謹んで弔辞を奉呈いたします。
「大喪の礼」の当日は公休日となった(平成元年法律第4号「昭和天皇の大喪の礼の行われる日を休日とする法律」)。なお、都心は雨天であった。各地では弔旗・半旗が掲揚されたほか、全国のテレビ・ラジオ放送(NHK教育テレビ・NHK衛星第1テレビ・NHKラジオ第2を除く)も報道特別番組が編成され、民間企業のCMは自粛され、公共広告機構(現:ACジャパン)のCMに差し替えられた。また、多くの公共施設が休館となり、多くのデパート・映画館なども休業した。フジテレビのドキュメンタリー番組『世界が日本を見つめた日』では、当日の報道特集を放送した。この日の全日帯での総世帯視聴率(HUD)は、あさま山荘事件で強行突入が行われた1972年2月28日に匹敵する62.8%に達した。
「大喪の礼」には、世界各国から国家元首・使節・大使等、164か国(EC委員会を含む)・27機関の700人に及ぶ要人が参列し、弔問外交も行われた。また国内からは、皇族、三権の長とその配偶者、国会議員(衆議院議員および参議院議員)とその配偶者、幹部公務員、都道府県知事、各界の代表者等が参列した(参列者の範囲は平成元年内閣告示第4号『昭和天皇の大喪の礼の細目に関する件』による)。
主な国・地域、国際機関からの参列者
国旗は1989年当時のもの。また、諸外国および国際機関の代表参列者の一覧は『外交青書』(1989年版)に掲載されている。世界中の王室が参列したが、戦時中のオランダ領東インドにおける日本軍の記憶から強い反日感情が存在するオランダの王室だけは欠席した。当時は中東地域やアフガニスタン、カンボジアを巡る情勢が緊迫化していたこともあり、これらの地域の弔問外交が活発に行われた。
| アラブ首長国連邦 ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム殿下 ラーシド外務担当国務大臣 アル・マカーミ大使 |
モサンナー通信・運輸大臣 ハイサム外務省儀典次長 |
ハイム・ヘルツォーグ大統領 |
ターハー・ムヒーウッディーン・マアルーフ副大統領 ザハウィ上級外務次官 アル・リファーイ大使および夫人 |
| イラン ミールサリーム副大統領 ハランディ国会議員(農業委員長) アデリ大使および夫人 |
ラーマスワーミー・ ヴェンカタラーマン大統領 |
スハルト大統領 シティ・ハルティナ大統領夫人 |
オマーン スワイニ国王代理殿下 |
姜英勲国務総理 申東元外務次官 李源京大使 |
民主カンボジア連合政府 ノロドム・ラナリット王子 |
クウェート オサイミ外務担当国務大臣 レズーキ外務省国際機関局長代行 アル・シャーリフ大使および夫人 |
アブドゥラアジズ皇太子 |
リー・クアンユー(李光耀)首相 |
スリランカ ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ前大統領 |
ワチラーロンコーン皇太子 チャートチャーイ・チュンハワン首相 |
銭其琛国家主席特使(外相) 徐敦信外交部アジア司長 楊振亜大使 |
トゥルグト・オザル首相 セムラ・オザル首相夫人 |
ネパール ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ王子 |
ベーナズィール・ブットー首相 アースィフ・アリー・ザルダーリー首相夫人 |
バーレーン アリ殿下(首長名代) |
| バングラデシュ フセイン・モハンマド・エルシャド大統領 |
フィリピン コラソン・アキノ大統領 |
ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王 ダワ・ツェリン外務大臣 カルマ・レト駐日大使 |
ブルネイ ハサナル・ボルキア国王 スフリ・ボルキア王子 ジェフリ・ボルキア王子 |
レ・クアン・ダオ国家評議会副議長兼国会議長 |
マウムーン・アブドル・ガユーム大統領 |
ヨルダン フセイン1世国王 ザイド・ビン・シャーケル王宮長官 マダーダハ大使および夫人 |
アンドリーセン副委員長 ワインマーレン副委員長付官房長 ファン・アフト大使 |
| バチカン(ローマ教皇庁) オッディ枢機卿 カルー大使 |
フアン・カルロス1世国王 ソフィア王妃 サパテロ国会関係首相府官房担当大臣 バルシア大使 |
カール16世グスタフ国王 シルヴィア王妃 フェルト大蔵大臣 ヘイマン大使 |
ファン・デン・ブルック外務大臣 ポストゥムス・メイエス大使および夫人 |
| ベルギー ボードゥアン1世国王 ファビオラ王妃 ティンデマンス外務大臣 |
ヘンリク王配 シモンセン大蔵大臣 アナセン大使 |
リヒテンシュタイン ハンス・アダム侯子 |
ハーラル王太子 |
| ルクセンブルク ジャン大公 ジョゼフィーヌ=シャルロット大公妃 |
ハンガリー ブルーノ・シュトラウブ国民議会幹部会議長 |
イギリス エディンバラ公フィリップ王配 ジェフリー・ハウ外務・英連邦大臣 |
フランソワ・ミッテラン大統領 ローラン・デュマ外務大臣 ドゥコー外務大臣付仏語圏国際文化交流担当大臣 ドラン大使 |
| フィンランド マウノ・コイヴィスト大統領 |
ドイツ連邦共和国 リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領 ゲンシャー副首相兼外務大臣 ブレヒ大統領府長官 ハリーヤ大使 |
ドイツ民主共和国 ゲルラッハ国家評議会副議長 ニーア外務次官 シュミット大使 |
ヴィグディス・フィンボガドゥティル大統領 |
| アイルランド パトリック・ヒラリー大統領 |
フランチェスコ・コッシガ大統領 |
マリオ・ソアレス大統領 |
ソビエト連邦 アナトリー・ルキヤノフ最高会議幹部会第一副議長 |
バルチコフスキ国家評議会副議長 |
マネスク国家評議会副議長 |
アルベール公子(大公世子) |
パパヨルギ大使 |
ホスニー・ムバーラク大統領 ブトロス・ガーリ外務担当国務大臣 エルメニアウィ大使および夫人 |
ダニエル・アラップ・モイ大統領 |
ナイジェリア イブラヒム・ババンギダ大統領 |
トーゴ ニャシンベ・エヤデマ大統領 |
モブツ・セセ・セコ大統領 |
ケネス・カウンダ大統領 |
ダウダ・ジャワラ大統領 |
ブルンジ ピエール・ブヨヤ大統領 |
キセッカ首相および夫人 |
バクーシュ首相および夫人 |
ニジェール ウマル首相 |
クーン総領事 |
ヴァン・ドゥーネン外務大臣 ハレー外務省アジア・太洋州局長 |
アリー・ボンゴ大統領個人代表 |
ビタット国民議会議長 ベントゥーネ国民議会議員 ゼルーニ大使 |
シディ・モハメッド皇太子 フィラーリ外務大臣 ペンジェルーン大使および夫人 |
| アメリカ合衆国 ジョージ・H・W・ブッシュ大統領 バーバラ大統領夫人 ジェイムズ・ベイカー国務長官 スヌヌ首席補佐官 ブレント・スコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官 アンダーソン臨時代理大使 |
カナダ ソヴェー総督 |
キューバ フェルナンデス閣僚会議副議長兼教育大臣 |
ジョゼ・サルネイ大統領 ソドレー外務大臣 ツヅキ衛生大臣 ブエノ大使 |
マルティネス副大統領 デ・ラ・グァルディア政策担当外務次官補 ロス大使 |
エラスリス外務大臣 シルヴァ外務大臣秘書官 ポンセ大使 |
オーストラリア ジョージ・ハイドン総督 ダフィー貿易交渉大臣 ミラー大使 |
ニュージーランド ポール・リーブス総督 マーシャル外務大臣兼太平洋島嶼国問題大臣 ゲイツ大使 |
| トンガ タウファアハウ・ツポウ4世国王 ハラエバル・マタアホ王妃 |
フィジー ペナイア・ガニラウ大統領 コロヴァヴァラ侍従武官 ウォーカー大使 |
西サモア マリエトア・タヌマフィリ2世大首長 |
マーシャル諸島 キジナー外務大臣 |
ハビエル・ペレス・デ・クエヤル事務総長 明石康事務次長 |
藤岡眞佐夫総裁 |
プーリ・アジア太平洋地域事務所長(事務局長補) |
関税および貿易に関する一般協定 ダンケル事務局長 |
コナブル総裁 |
赤十字国際委員会 キュング東アジア地域首席代表 |
米州開発銀行 デ・アンドレア理事(ペルー、コロンビア担当) |
ブラウン副総裁 |
中村事務局長補 |
カムドゥシュ専務理事 |
ジプゲップ事務総局次長 |
経済協力開発機構 ペイユ事務総長 |
ドレーパー事務局長 |
ヤケール事務局長付特別顧問 |
シアソン事務局長 |
中嶋宏事務局長 |
ホー・アジア南西太平洋地域担当部長 |
グルグリーノ学長 |
将来の陵と喪儀のあり方
宮内庁は2012年(平成24年)4月、天皇と皇后の意向を踏まえ、今後の陵と喪儀のあり方について検討を行うと発表し、2013年(平成25年)11月14日、「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」と題する文書を公表した。天皇と皇后はかなり早い段階から陵と喪儀について話し合い、折に触れ宮内庁長官や宮内庁参与の意見にも耳を傾けてきたとし、皇室の歴史では陵の営建や喪儀に関し人々に過重な負担を課することを望まないとの考え方が古くからあり、天皇は今後の陵や喪儀全体についても、極力国民生活への影響の少ないものとすることが望ましいと考えてきたことを明らかにした。
同時に天皇は、従来の皇室のしきたりはできるだけ変えず,その中で現代の要請も入れて行うべきとの考えも示した。
宮内庁の基本的な考え方
⚫︎日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と、象徴の配偶である皇后のそれぞれの身位にふさわしい陵、喪儀とする。
⚫︎皇室の喪儀の伝統的方式および昭和天皇の喪儀などの先例を基本とし、葬送のあり方に関する社会や国民意識の変化を踏まえる。
⚫︎国民の日常生活に影響が及ぶことを極力少なくするようなあり方とする。
陵について
天皇は、昭和天皇陵と香淳皇后陵が、大正天皇陵と貞明皇后陵の場合と異なり隣接して平行に設置される形になっていず、武蔵陵墓地に陵所用地を確保するには限度があることを考慮し、自身の陵は従来より縮小して築き、昭和天皇陵、香淳皇后陵を囲む形で、自身を含む今後何代かの陵が営建できればと考えている。皇后との合葬も考慮したが、皇后は、天皇の気持ちに深く感謝しつつも畏れ多いことから合葬は遠慮した。皇后は同時に、皇后陵も従来比で小さくすべきとの考えを示した。
新たな陵は武蔵陵墓地における大正天皇陵の西側に営建する。天皇陵、皇后陵のそれぞれの兆域を合わせた面積を7,870 ㎡とし、大正天皇陵と貞明皇后陵の
火葬について
葬法については、天皇、皇后ともに陵の簡素化という観点も含め火葬が望ましいとの考えを示した。陵の用地制約のもと、火葬の場合は陵の規模や形式を弾力的に検討できるということ、現代社会では火葬が一般化していること、歴史的にも天皇皇后の葬送が土葬(1654年崩御の第110代後光明天皇から2000年崩御の香淳皇后までは土葬。後光明天皇のあとに崩御した第108代後水尾天皇、第109代明正天皇も土葬)と火葬(1036年崩御の第68代後一条天皇から1617年崩御の第107代後陽成天皇までは火葬。第96代後醍醐天皇は土葬説も)のどちらも行われてきたことを根拠とする。
天皇、皇后の身位を重く受け止め、火葬専用の施設を武蔵陵墓地内に設置する。施設はその都度設け、火葬後は撤収し、その資材・火葬炉等を保存管理し、適切な利用を図るものとする。具体的な設置場所については周辺環境に十分配慮し定める。
喪儀全体の組み立てについて
⚫︎喪儀は、火葬導入後も1年間にわたり執り行われ、従来と同様にまず
斂葬当日、「葬場殿の儀」および「陵所の儀」が行われ、斂葬翌日から一周年祭まで昭和天皇の喪儀と同様の儀式が行われる。
⚫︎火葬導入に伴い追加、変更等となる儀式については、祭場をしつらえ祭官が奉仕し、参列者が拝礼するなど皇室祭儀の有り様に沿うものとする。
⚫︎葬送の儀式である「葬場殿の儀」は、昭和天皇の喪儀を踏まえる。葬場については今後、規模・場所のあり方や,国民の利用への影響等を考慮し、国民生活への影響の少ないものとするほか、極端な気候・天候などにも安全に対応でき、できる限り樹木の伐採を伴わないなど環境への配慮が可能な場所とする。
⚫︎「大喪の礼」については,国事行為であり内閣が判断することになる。
⚫︎皇后、上皇后、皇太后等の喪儀については,その身位に鑑み,これまでと同様に大喪儀とし、火葬導入後も天皇大喪儀に準じた方法で、「葬場殿の儀」および「陵所の儀」を中心として1年間にわたり執り行う。
「葬場殿の儀」は皇居宮殿で実施へ
2026年(令和8年)9月2日、上皇の意向を受け、将来の喪儀の規模を大幅縮小する方向で宮内庁が準備を進めていると報じられた。
大正天皇、昭和天皇の「葬場殿の儀」は新宿御苑を長期間閉鎖して式場としたが、皇居宮殿正殿「松の間」に「殿舎」を設け、宮殿の各部屋や廊下なども使って行う方向で調整が進められている。式場の変更に伴い、参列者数を2500人程度へと昭和天皇大喪の約1万人に比べ大幅に縮小する。また、昭和天皇大喪の時に早朝から深夜まで続いた儀式は2日間に分け、参列者や皇族の負担を軽減する。上皇、上皇后は「葬場殿の儀」について、「多くの国民が利用している場所を長期間占有しないよう留意する必要がある」と考え、宮内庁は皇居東御苑や赤坂御用地を軸に式場の検討を進めていた。だがこの検討は、上皇の強い意向で軌道修正された。
天皇が苦悩した殯の記憶
上皇は天皇在位中の2016年(平成28年)8月8日に発表した「おことば」でも、以下のように天皇大喪儀を先例どおり執り行うことの厳しさを語っている。
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては重い殯の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が1年間続きます。その様々な行事と新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが胸に去来することもあります — 天皇陛下、象徴としてのお務めについてのおことば(平成28年8月8日)
