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雪岩秀梅

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雪岩秀梅(せつがんしゅうばい、生年不詳 - 天正20年11月18日(1592年12月21日))は、安土桃山時代の女性。父は吉川元春。母は新庄局。石見国の国人・吉見広頼の嫡男であった吉見元頼の正室。実名は不明で、法名は「雪岩秀梅大姉」。

兄に吉川元長、繁沢元氏、吉川広家、吉川松寿丸、姉に芳春院(益田元祥正室)がいる。

生涯

誕生と婚姻

生年は不明だが、毛利元就の次男で吉川氏を相続した吉川元春の次女(末子)として誕生。その容姿については、天保12年(1841年)9月に大野毛利家の命で生田頼明によって編纂された『吉見家譜』によると「容顔美なり」と伝えられている。

石見国鹿足郡津和野の三本松城を本拠とする国人・吉見広頼の嫡男である吉見元頼と婚姻した。

死去

天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役では、吉見氏当主・吉見広頼が病であったため、元頼が代わりに出陣したが、元頼が出陣中の同年11月18日に雪岩秀梅は津和野において若くして死去し、吉見氏の菩提寺である永明寺に葬られた。

雪岩秀梅の訃報を朝鮮出陣中の元頼の下に届けるべく、吉見氏家臣の野村善三郎と波多野弥左衛門らが津和野を出発し、翌年の文禄2年(1593年)3月8日、漢城に在陣中の元頼のもとに到着した。朝鮮に従軍していた吉見氏家臣の下瀬頼直は陣中日記において、元頼が訃報を受けた際の様子を「公私仰天し、殊の外泣涕こがれ、御嘆きの事限りなし。雨少し降り候」と記している。

同年3月18日、元頼は雪岩秀梅の追善として、家臣5人と共に「南無阿弥陀仏」の6字(なむあみたふ)をそれぞれ文頭に用いた歌を詠んでおり、それぞれの歌は以下の通りである。

  • 南 「なへて世に さることはりの ゆきと花 ちらすは春の なけきをはせん」 宗七
  • 無 「むらさきの 雲の上まて うかひしを さきたちぬると 見るそはかなき」 六太夫
  • 阿 「あわれたゝ 消にしあとの おもひ草 涙の袖を いつかはれまし」 元頼(吉見元頼)
  • 弥 「見渡せば 花はちりつゝ 春風に つれなく残る 身こそつらけれ」 理介
  • 陀 「たゝひとり 若木の花の いたつらに 夢をなりしを 聞そはなき」 久内
  • 仏 「ふたかたに ひき別れつる 去年の春を ながきわかれと 今そしらるゝ」 寺助右(寺戸助右衛門?)

没後

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果、毛利氏が周防国と長門国の2ヶ国に減封され、雪岩秀梅の兄・吉川広家が周防国玖珂郡岩国に所領を与えられた後、吉川広家が「如兼」の号を名乗っている元和4年(1618年)頃から寛永元年(1624年)の間のある年の11月17日、広家が永興寺に対し、翌日に行われる「秀梅禅尼」の追善供養について依頼している書状が残っており、雪岩秀梅の生家である吉川氏が岩国領主となってからも雪岩秀梅の追善供養が行われていたことを示している。

系譜

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