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新庄局

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基本情報

生年月日1550
死亡年月日1607年1月9日
配偶者吉川元春

新庄局(しんじょうのつぼね、生年不詳 - 慶長11年12月11日(1607年1月9日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。熊谷信直の次女。吉川元春の正室。法名は慈光院窓玉芳珪大姉。その他の呼び名は吉野原御局、大はうさま、慈光院、いわくに。

生涯

安芸国の国人領主・熊谷信直の次女として、熊谷氏の居城である三入高松城で生まれる。

天文16年(1547年)に毛利元就の次男・吉川元春と結婚。

翌天文17年(1548年)に長男の吉川元長を生み、続いて吉川元棟(後の繁沢元氏)、芳春院(益田元祥正室)、吉川広家、吉川松寿丸、雪岩秀梅(吉見元頼室)を生んだ。元々は政略結婚とはいえ、元春は新庄局を深く愛し、他に側室を持つことは無かった。新庄局自身もそんな元春の誠実さに心うたれたのか、元春を誰よりも信頼し、愛した。

勝気な女性であったのか、毛利元就の娘で義姉で宍戸隆家の妻・五龍局と険悪な雰囲気があったらしく、家中の和を望む元就に「三子教訓状」でその事をたしなめられている。また、元就に送った書状は「文章が非常に短く、まるで尼子経久や弘中隆兼の偉そうな書状のようだ」と元就を苦笑させ、五龍局との和解を仲介する書状を送ってきた小早川隆景に対しては返事も送らなかった。しかし、吉川家中では良妻賢母であったようで、元春が息子の広家に送った手紙には「内とわれら二人のひざもと」などと、その家庭のぬくもりを語っている。経言(広家)に宛てた手紙には元春と連名して「われら二人 親ふたり 二人の親」と鮮やかな夫婦の姿を浮きぼりにしている。

天正14年(1586年)に九州へ出陣中の元春、翌天正15年(1587年)に長男の元長と相次いで病死すると、吉川氏の継嗣となった三男の広家に引き取られた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後は、広家に従って周防国岩国に移住。

慶長11年(1606年)12月11日に死去。岩国の万徳院に葬られたが改葬され、現在、墓所は山口県山口市の瑠璃光寺と山口県岩国市の洞泉寺にある。

逸話

陰徳太平記と元春夫人の醜女説の成立

香川宣阿による『陰徳太平記』に「白くも頭にあばた面、歩く姿はがにまた・せむし」「世にまたとなき悪女」と書かれており、吉川家家臣の手による書物であるというのに、遠慮もなく無惨であるのは、世評どおり事実であったものであろうといえる。

「形醜くければ、人これをめとらず、父の歎き、またいかばかりぞや」と噂された醜女を、元春みずから「わが望むところは熊谷信直の嫡女なり」と、進んで迎えたとされている。

関連作品

テレビドラマ

参考資料

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