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平安時代後期の公卿。藤原北家御堂流。藤原師実の嫡男。従一位、関白、内大臣。

藤原師通

藤原師通

基本情報

生年月日1062年10月16日
死亡年月日1099年7月18日
職業侍
出生地日本
配偶者藤原全子
公職太政大臣
インフォボックスの全データ 11
時代
平安時代後期
生誕
康平5年9月11日(1062年10月16日)
死没
承徳3年6月28日(1099年7月18日)
別名
後二条殿、二条関白
官位
従一位、関白、内大臣
主君
白河天皇→堀河天皇
氏族
藤原北家御堂流
父母
父:藤原師実、母:源麗子(源師房の娘)
兄弟
覚実、仁源、師通、家忠、覚信、経実、静意、澄真、能実、忠教、仁澄、尋範、行玄、増智、永実、玄覚、忠長、藤原基隆室養兄弟:賢子、篤子内親王
妻
藤原全子(藤原俊家の娘)藤原信子(藤原信長の養女)、藤原良綱の娘平貞経の娘、源頼綱の娘妾:家女房丹後、源師忠家女房
子
忠実、家政、家隆、斎院女別当、女子、令子内親王宣旨、覚英、栖霞院姫君

藤原 師通(ふじわら の もろみち)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白・藤原師実の嫡男。官位は従一位、関白、内大臣。

経歴

承保3年(1076年)、権大納言藤原俊家一女の全子を正室に迎える。承暦2年(1078年)に長男忠実が生まれるが、その後全子とは疎遠となり、藤原教通の子信長の養女信子と再婚した。これは摂家の主導権を巡って長年対立していた頼通流と教通流の確執に終止符を打つ意味合いを持つものだったことは想像に難くないが、しかし実質的に離婚された方の全子は師通と信子を恨み、亡父俊家の肖像を描かせて夜な夜な礼拝し、師通夫妻を呪ったという。寛治8年(1094年)師実の後を継いで関白に就任すると、白河上皇から自立して親政を行おうとしていた堀河天皇と共に積極的な政務を展開する。

院政が制度として確立していない当時にあっては、成人した天皇と関白が緊密に提携していれば上皇が権力を振るう余地はまだあまりなかった。師通は「おりゐのみかどの門に車たつ樣やはある(譲位した天皇の御所の門に、牛車が立ち並ぶことなどあろうか)」と公言したという。師通は大江匡房に学問を学び、匡房に代表される伝統的な実務官僚層を掌握する。その一方では新興の院近臣勢力に対しては警戒感を示し、藤原顕季の邸宅を身分不相応だとして破壊したことが伝わる。さらに白河院が受領に任じた近臣を受領功過定を経ずに重任させようとしたのを制止までしている。そうした政治姿勢は「嘉保・永長の間、天下粛然」と賛美された。

嘉保2年(1095年)に延暦寺日吉社が美濃守源義綱の流罪を求めて強訴した際には、断固これを拒否した上で中務丞源頼治を派遣して衆徒を撃退させている。ところがその際に威嚇として放った矢が僧兵や神人に当たり負傷者が出たため、延暦寺は朝廷を呪詛した。師通は強訴の直後に病に伏したが、まもなく回復し、承徳3年(1099年)に急逝した。

同時代の日記には、師通の急逝を日吉明神の神罰によるものとする記述はみられない。院政期末期頃に成立した『今鏡』は延暦寺大衆の物々しい言説に触れ、さらに後の『愚管抄』は、日吉社神人の負傷に対する祟りによって師通が没したと記している。

比叡山側の縁起である『山王霊験記』では、神人の殺傷に憤った延暦寺僧が八王子権現に師通への呪詛を行ったとされる。師通が比叡山から飛来した鏑矢に射られる夢を見た後、寝殿に一本の榊が刺さっていたこと、その4年後に悪瘡を発し、死の直前に神人が射られたのと同じ背中から出血したことなどが語られている。また、死後も八王子権現の戒めを受けて苦しみ、法華問答講を聴く間だけ苦痛が和らいだとされる。ただし、同書は日吉山王社の縁起であり、その内容には延暦寺側の意図に基づく脚色や虚構が含まれるとみられている。

『山王霊験記』は、師通の母源麗子がその危篤に際し、八王子宝前での法華問答講への供料寄進などを誓願したと伝える。一方、日吉社の法華問答講が始まったのは師通の死から約10年後の天仁元年(1108年)6月であり、摂関家がその費用を負担するようになったのも天仁3年(1110年)3月であった。法華問答講の開始は、延暦寺内の悪僧坊舎への落雷が、悪僧の濫行による仏法衰微に対する日吉明神の神罰と受け止められたことを契機としたとみられ、『山王霊験記』の叙述とは時期が異なる。これに先立つ天仁2年(1109年)6月28日、麗子は師通追善の堂舎の落慶を行い、翌年にも師通の忌日に高陽院八講を営んでいる。

遠藤基郎は、師通の急逝を日吉明神の神罰とする認識が、師通に仕えた大江匡房ら文人官人に鎮守神の神罰を強く意識させ、中世における起請文成立の思想的契機の一つになったとする仮説を提示している。

後継者の忠実はまだ数え22と若く、官職もいまだ権大納言で関白となる要件にも欠けていた。引退していた師実にも忠実を支えるだけの余力はすでになかった。師通が有能だっただけにそれを失った摂関家は白河院に対する従属を余儀なくされ、その勢力を大きく後退させていく。

人物

『前賢故実』より
『前賢故実』より

性格は剛直で気が強く、真面目で物事の道理を重視する性格であったと伝えられている。また体躯も立派であり、歴代天皇の御物である絃上という琵琶を弾いた際、琵琶がまるで塵のように小さく見えたとの話が伝わっている。

その一方で、若い頃から健康問題を抱えていたらしく、師通の日記である『後二条師通記』にも寛治3年(1089年)頃より体調不良の記述がみられる。その一方で、亡くなる11日前まで日記が書かれていることから、本人にとっても突然の死であったことが窺える。

日記に『後二条師通記』がある。

官歴

※日付=旧暦

系譜

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