出自
経歴
宮崎城攻めと戦死
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による奥州仕置の後、旧葛西・大崎領で葛西・大崎一揆が発生した。翌天正19年(1591年)、伊達政宗は一揆鎮圧のため軍勢を派遣し、景隆もこれに従軍した。
景隆は、現在の宮城県加美郡加美町にあった宮崎城の攻略に参加した。現地に伝わる説明によれば、伊達軍は旧暦6月24日から25日にかけて宮崎城を攻撃し、城を陥落させた。景隆はこの戦いの最中、城内からの銃撃を受けて戦死したという。享年38。
景隆は戦死に際し、甲冑を着けて宮崎城の方向に立った姿のまま埋葬するよう遺言したと伝えられる。また、戦死時に着用していた血染めの鎧下着が後世まで伝来したという。
墓は宮城県加美郡加美町にある。現在の墓碑は、明和8年(1771年)、景隆の子孫で武芸家の浜田市郎兵衛武次によって再建されたものとされる。
系譜
浜田家側の系譜
国立国会図書館のレファレンス協同データベースで紹介されている伊達家臣関係史料では、景隆の後継者は浜田伊豆景国とされる。
- 父:浜田宗景
- 妻:松田氏の娘とされる
- 嫡子:浜田四郎兵衛景国
景国は浜田家第16代となり、400貫文または4,000石を知行したと伝えられる。しかし、大坂に滞在中、敵将の首級を挙げたことをめぐって伊達政宗の不興を買い、伊達家を出奔したという。伊達家臣関係史料では、このため浜田家はいったん断絶したとされる。
一方、その後の浜田家系図は、
- 景国―景次―家次―重次―長次―貞次―信次―武次―義次―康次―景慂―景長
と続くとも伝えられる。景国出奔後、同族が伊達家に帰参し、家名を再興した可能性がある。
北川宣勝との関係
大村市立史料館所蔵『新撰士系録』巻之十七「松田氏系譜」を典拠とする『新編大村市史』第五巻付録には、浜田家側とは異なる伝承が収録されている。
同系図は、
- 松田秀景―松田秀利―松田秀宣―北川次郎兵衛宣勝―長倫
と記し、北川宣勝を蒲生氏郷・長束正家らに仕えた松田金七郎秀宣の子とする。
同書によれば、景隆が奥州宮崎城攻めで戦死し、跡継ぎがなかったため、宣勝が入婿として浜田家を継いだという。宣勝は浜田城に住み、浜田治部太輔と称し、城付きを合わせて4万石を知行したとされる。
しかし、浜田家側の系図では景隆の嫡子を景国としているため、
- 景隆には跡継ぎがなかったとする大村側の伝承
- 景国が嫡子として家督を継いだとする浜田家側の伝承
は一致しない。
宣勝が浜田本家を継いだのか、浜田氏の別系統に入ったのか、あるいは景国出奔後に一時的な後継者として迎えられたのかは明らかでない。また、景隆の妻を松田氏の娘とする伝承と、宣勝の父・松田秀宣との具体的な続柄も確認されていない。
したがって、北川宣勝については、景隆の実子と断定することはできず、松田秀宣の子で、景隆戦死後に浜田家へ入婿したとする大村側の異伝があると位置づけるのが妥当である。
子孫
浜田家側の系譜によれば、景隆の嫡系は景国を経て存続した。一本柳の旧領に残った浜田一族もいたとされ、後世に建てられた「学翁景敏碑」には、景敏が景隆の後裔であると記されている。
江戸時代中期の浜田市郎兵衛武次は武芸家として知られ、明和8年(1771年)に景隆の墓碑を再建した。
幕末期の浜田景慂は奥年寄となり、仙台藩主家の八代姫に仕えた。その子・景長は戊辰戦争に際して城壁の築造に関与し、明治期には探索方を務めたと伝えられる。