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中世イングランドの爵位

ヘレフォード伯爵

ヘレフォード伯爵

ヘレフォード伯爵(ヘレフォードはくしゃく、英語: Earl of Hereford)は、中世イングランド王国においてヘレフォードシャーおよびウェールズとの国境地帯の統治に関係した伯(earl)の称号、および後に成立した世襲伯爵位である。11世紀のアングロ・サクソン時代には、ヘレフォードシャーはマーシアあるいはウェセックスなどの大伯領の一部として編成され、スヴェン・ゴドウィンソン、ラルフ・オブ・マント、ハロルド・ゴドウィンソンらの支配下に置かれた。この時期の伯領は、一つの州名と結びついて代々継承される後世の世襲爵位とは性格を異にしていた。

ノルマン・コンクエスト後には、ウィリアム征服王が遅くとも1067年までにウィリアム・フィッツオズバーンへヘレフォードを中心とする強力な伯権を与えた。その子ロジャー・ド・ブルトゥイユは父のイングランド所領と伯としての地位を継承したが、1075年の伯爵たちの反乱に加わり、全所領を没収されて終身投獄された。

無政府時代の1141年には、皇后マティルダが支持者マイルズを正式にヘレフォード伯に任じ、ヘレフォード城、ヘレフォード市の収入の3分の1、ヘレフォードシャーの裁判収入の3分の1などを彼とその相続人へ与えた。マイルズの男子系が絶えた後、その家産の主要部分とイングランド大司馬職に対する権利は長女マーガレットの子孫であるボーン家へ移った。

1200年4月28日、ジョン王はヘンリー・ド・ボーンに、ヘレフォードシャーの「第三のペニー」に由来する年20ポンドを与え、彼をヘレフォード伯とした。以後、伯爵位はボーン家に継承され、同家はヘレフォード伯爵位に加えてエセックス伯爵位、イングランド大司馬職、ウェールズ辺境の広大な所領などを保持する有力貴族家門となった。1373年、第7代ヘレフォード伯ハンフリー・ド・ボーンが男子相続人を残さず死去したことで、ヘレフォード伯爵位は廃絶した。

歴史

アングロ・サクソン期

11世紀前半まで、後のヘレフォードシャーにあたる地域は独立した伯領として一貫して統治されていたわけではなく、長くマーシアの大伯領の一部を形成していた。エドワード懺悔王が1042年に即位した直後、ヘレフォードシャーはゴドウィンの長男スヴェン・ゴドウィンソンの伯領へ移された。スヴェンの伯領にはヘレフォードシャーだけでなく、オックスフォードシャー、グロスタシャー、サマセット、バークシャーも含まれており、ヘレフォードシャーは単独の伯爵領ではなく複数州から構成された広域的な伯領の一部であった。

スヴェンの伯領はウェールズとの国境を含み、その統治はウェールズ諸王の抗争と密接に関係した。1046年、スヴェンはグリフィズ・アプ・リウェリンとともにウェールズへ遠征し、人質を得て帰還した。しかし帰還後、スヴェンはレオミンスター修道院の女子修道院長エドギフを連れ去り、国外へ逃れて追放された。その所領の一部は弟ハロルド・ゴドウィンソンと従兄弟ビョルン・エストリズソンへ分配されたが、この時期にヘレフォードシャーが具体的に誰の権限下に置かれたかは明らかではない。1049年にスヴェンは旧領回復を試みたが、ハロルドとビョルンは返還を拒否し、その後スヴェンはビョルンを殺害して再び国外へ逃れた。翌1050年には赦免され、伯領も回復されたと考えられている。

1051年、父ゴドウィンとエドワード懺悔王との対立が表面化すると、スヴェンは父および弟ハロルドとともに自らの伯領から軍勢を集めた。『アングロ・サクソン年代記』はこの年、ヘレフォードシャーにいたスヴェンの配下の「外国人」が城を築き、周辺の王の臣民に危害を加えていたと記録している。この城の所在地には議論があり、かつてはリチャーズ・キャッスルと同一視されたが、E・I・カーライルはその根拠を十分とはみなしていない。一方、征服以前から城が存在したことが確認できるエウィアス・ハロルド城を、この城、または1052年に史料へ現れる「ペンテコストの城」と同一視する可能性については、より有力な根拠があるとしている。

同年9月、スヴェンは再び追放され、ゴドウィン一族も国外へ追われた。これに伴いヘレフォードシャーはエドワード懺悔王の甥ラルフ・オブ・マントへ委ねられた。ラルフは王の姉ゴドギフとヴェクサン伯ドロゴの子であった。1052年にはグリフィズ・アプ・サウェリンがヘレフォードシャーへ侵入し、レオミンスター付近で州の徴募兵と「城のフランス人」からなる軍勢を破った。ラルフ自身はこの時、オッダ・オブ・ディアハーストとともにサンドウィッチの艦隊を指揮しており、ヘレフォードシャーには不在だった可能性が高い。同年9月にゴドウィン家が復権した後もラルフは伯としての地位を維持し、スヴェンはエルサレム巡礼からの帰途、1052年9月29日に死去した。

ラルフ統治下で最大の軍事危機となったのが、1055年のヘレフォードの戦いであった。同年、マーシア伯レオフリックの子エルフガーが追放されると、アイルランドで軍勢を集めた後にグリフィズと同盟し、ヘレフォードシャーへ侵入した。10月24日、ラルフはイングランド人とノルマン人からなる軍を率い、ヘレフォード市から約2マイル離れた地点でこれを迎撃した。ラルフはイングランド人部隊にも騎乗して戦うよう命じたと伝えられ、『アングロ・サクソン年代記』は、槍が投げられるより前にイングランド軍が逃走したとし、その理由として彼らが騎乗していたことを挙げる。

ラルフ軍は潰走し、追撃によって約400人から500人が殺害された。勝利したエルフガーとグリフィズの軍勢はヘレフォード市へ入り、市街を略奪・焼却し、ヘレフォード大聖堂も攻撃した。聖堂の財宝は奪われ、聖職者や市民の一部も殺害または連行された。敗北後、国境防衛への対応はハロルド・ゴドウィンソンへ移り、ハロルドはイングランド各地から軍勢を集めてグロスターへ進み、グリフィズとエルフガーを後退させた。その後ヘレフォードへ戻り、市の周囲に堀を掘らせて防備を強化した。

1056年、グリフィズは再びヘレフォード方面へ侵入し、新任のレオフガー司教が軍勢を率いて迎撃した。6月17日の戦闘でレオフガー本人をはじめ多数が戦死し、その後、マーシア伯レオフリック、ハロルド、ウスター司教エアルドレッドらが交渉にあたり、グリフィズとエドワード王との和平が成立した。1057年12月21日にラルフが死去すると、彼には幼い息子ハロルドがいたものの、ウェールズ国境の防衛を幼児に委ねることはできず、ヘレフォードシャーはハロルド・ゴドウィンソンのウェセックス伯領へ組み込まれた。カーライルは、1055年と1056年の相次ぐ危機によって、ヘレフォードシャー単独ではウェールズ辺境を防衛する行政・軍事単位として弱すぎることが示されたと評価している。

1063年、ハロルドは弟トスティ・ゴドウィンソンとともにグリフィズに対する大規模な遠征を開始した。陸海から圧迫されたウェールズ人は最終的にグリフィズを殺害し、その首をハロルドへ送った。この遠征によってヘレフォードシャー西方の政治・軍事情勢は大きく変化し、ヘレフォードシャーは1066年のノルマン征服までハロルドの勢力圏にとどまった。

ノルマン征服後

ウィリアム・フィッツオズバーン

1066年のノルマン征服によってハロルド2世の支配体制が崩壊すると、ヘレフォードシャーは一時的に有力な伯を欠く状態となった。しかし同州はウェールズへ通じる主要交通路を押さえており、征服地の防衛とウェールズへの進出の双方に重要であった。征服王は遅くとも1067年3月までに側近ウィリアム・フィッツオズバーンを伯として同地方の統治にあたらせた。フィッツオズバーンは征服王の古くからの側近で、征服後にはオド・ド・バイユーとともにイングランド統治の中心を担った。

フィッツオズバーンがヘレフォードで有した権限は単なる土地保有にとどまらなかった。彼はヘレフォード市の慣習を、自らがノルマンディーに所有していたブルトゥイユの慣習にならって整備したとされる。また多数の騎士を軍事的従者として抱え、その維持のために特別な条件を与え、辺境防衛を担う軍事集団を形成した。VCHはこうした司法・財政上の広範な権限を、後世の通常の伯爵位よりも強い「palatine」的な伯権として説明している。

征服直後のヘレフォードシャーでは、エアドリク・キルドがノルマン支配に抵抗していた。エアドリクはブレディン・アプ・キンヴンらウェールズ勢力と同盟し、1067年8月にはヘレフォードシャーへ侵入した。フィッツオズバーンはこれに対応して辺境防衛を強化し、ヘレフォード城、ウィグモア城、クリフォード城、エウィアス・ハロルド城などの城郭を整備した。さらにウェールズ側へ進出し、ワイ川とモノウ川の合流地点にモンマス城を築いた。これらの城郭はヘレフォード平野への侵入路とウェールズへの進出路を押さえる軍事拠点網を形成していた。

1070年頃までにはフィッツオズバーンの軍事活動は南ウェールズへ及び、マレディズ・アプ・オワインを破って勢力を拡大した。しかし彼は1070年末にはイングランドを離れ、フランドルの内戦へ介入した。1071年のカッセルの戦いで戦死すると、ノルマンディー所領は長男ウィリアムが、イングランド所領と伯としての地位は次男ロジャー・ド・ブルトゥイユが継承した。

ロジャー・ド・ブルトゥイユと1075年の反乱

ロジャーは父のイングランド所領を継承したが、王権との関係は父ほど安定していなかった。彼は国王の州長官が自領内で裁判権を行使することにも反発し、征服王は自らが帰国して裁定するまで州長官がロジャーの所領内で訴訟を扱わないよう命じている。

1075年、ロジャーは妹エマをイースト・アングリア伯ラルフ・ド・ゲールと結婚させ、その婚礼を契機としてウィリアム征服王への反乱計画に加わった。ロジャーは西部へ戻って軍勢を集めたが、州の徴募軍であるフィルドを自陣営へ引き入れることには失敗した。王党側ではウスター司教ウルフスタンらが軍を集め、セヴァーン川方面を押さえてロジャーと東部の反乱軍との合流を阻止した。反乱は失敗し、ロジャーは捕らえられ、1075年のクリスマスに全所領の没収と終身投獄を宣告された。

これによってフィッツオズバーン家の伯権は解体され、ヘレフォード伯領は王の手に留め置かれた。旧伯領の所領や城郭は複数の有力者へ分散し、とくにレイシー家とモーティマー家が勢力を拡大した。ウィグモア城はモーティマー家へ与えられ、以後同家の主要拠点となった。

伯爵位空位期と辺境領主

1075年以後のヘレフォードシャーでは、フィッツオズバーン父子のように一人の伯へ強大な権力を集中させる体制に代わり、王権のもとで複数の辺境領主が城郭と所領を分有する状況が形成された。1088年にはロジャー・ド・レイシーやラルフ・ド・モーティマーらがウィリアム赤顔王に対する反乱に参加し、ヘレフォードを占拠した。反乱軍はウスターへ進んだものの撃退され、ロジャー・ド・レイシーは後に赦免された。しかしロジャーは1095年にも王への陰謀に関与し、翌年の王会議で追放されて所領を失った。

ヘンリー1世治世後半には、ペイン・フィッツジョンがヘレフォードシャーとシュロップシャーの州長官を兼任し、グロスタシャーなどを統治したマイルズとともに西部の王権を支えた。ペインは1137年7月10日、ウェールズ人との戦闘で死亡し、西部の王権を支えてきた行政体制の一角が失われた。

無政府時代とヘレフォード伯爵位の再創設

1135年にヘンリー1世が死去し、スティーヴンと皇后マティルダとの王位争いが始まると、ヘレフォードは西部支配をめぐる重要な争奪地となった。1138年初頭、マティルダ派のジェフリー・タルボットがヘレフォードを占領したが、スティーヴンは同地を包囲し、4週間ないし5週間の後に奪還した。スティーヴンはウィーブリー城も攻略し、両城へ守備隊を配置した。翌1139年にマティルダ本人がイングランドへ上陸すると、マイルズもマティルダ側へ転じ、ヘレフォード市と城をめぐる争いは再燃した。

この混乱のなか、スティーヴンは有力な支持者ロバートへヘレフォードの町、城、および「ヘレフォードシャーの伯領」を世襲的に授与した。ロバートの妻アミシアはウィリアム・フィッツオズバーンの孫娘であり、この授与は旧フィッツオズバーン家との血縁を持つ人物に伯領を与える形でもあった。しかしロバートは実際にはヘレフォード伯領を占有することができず、実効的な伯家の成立には至らなかった。

1141年2月2日のリンカーンの戦いでスティーヴンが捕らえられると、情勢はマティルダ側へ傾いた。同年7月25日、マティルダはオックスフォードでマイルズを正式に「ヘレフォード伯」とした。勅許状では、ヘレフォード城とそのモット、ヘレフォード市の収入の3分の1、ヘレフォードシャーの裁判収入の3分の1、マーデン、ラグワーディン、ウィルトンの3王領荘園などがマイルズとその相続人へ与えられた。さらに森林、牧草地、水域、市場などに関する権利や、一部家臣の奉仕も授与対象に含まれていた。VCHはこの伯爵位を、フィッツオズバーン家の伯権をそのまま復活させたものではなく、パラティン的権限を伴わない新たな創設と位置づけている。

マイルズは1143年12月24日、狩猟中の事故で死亡し、伯爵位は長男ロジャーへ継承された。1154年にヘンリー2世が即位すると、ロジャーはヘレフォード城とグロスター城の返還を要求され、翌1155年に両城を王へ引き渡した。王は代わりに、父祖の封、ヘレフォード伯爵位、ヘレフォード市・州裁判収入の第三のペニー、3王領荘園などを再確認した。しかしロジャーは同じ1155年に子なく死去し、弟たちは一族の所領を継承したものの、ヘレフォード伯爵位そのものは継承せず、伯爵位は再び王権の手に戻った。

ボーン家

ヘンリー・ド・ボーンと1200年の再創設

マイルズ伯の長女マーガレット・オブ・ヘレフォードはハンフリー2世・ド・ボーンと結婚しており、マイルズ家の男子系断絶後、その家産の主要部分とイングランド大司馬職に対する権利はボーン家へ移った。ボーン家はヘレフォード伯爵位を得る以前から、婚姻を通じてウィルトシャーのトローブリッジなどにも所領を形成していた。

マーガレットの子孫ヘンリー・ド・ボーンは、1200年4月28日、ジョン王からヘレフォードシャーの「第三のペニー」に由来する年20ポンドを与えられ、正式にヘレフォード伯となった。この措置は1141年の伯爵位を単純に相続させたものではなく、王権による新たな創設として構成されていた。さらにヘンリーが伯となってもヘレフォード城そのものは彼へ与えられず、王権の管理下に残された。したがって、1200年のボーン家の伯爵位はフィッツオズバーン時代の強力な辺境伯権をそのまま復活させたものではなかった。

ヘンリー自身はマイルズ家からの世襲的権利を強く意識していたらしく、彼の現存勅許状では、マイルズの息子ロジャーだけでなくその弟たちにも「ヘレフォード伯」の称号を付している。しかしマーガレット自身の勅許状ではロジャー以外の弟に伯号は付されておらず、Nicholas Vincentは、ヘンリーが自らの伯爵位を王の新たな恩恵よりも父祖以来の世襲権として表現しようとした可能性を指摘している。

ジョン王との対立とマグナ・カルタ

13世紀初頭、ヘンリーはジョン王との関係を悪化させ、1215年には国王に改革を求める諸侯と行動を共にした。同年復活祭期には諸侯とともにスタンフォードへ集結し、6月のマグナ・カルタ承認へ至る政治圧力に加わった。さらにヘンリーは、憲章の実施を監督するため諸侯によって選ばれた25人の諸侯の一人となった。この25人には、国王または王の官吏による違反が是正されない場合に王の城・土地・財産を差し押さえることを含む強制権が認められていた。

王と反乱諸侯との和解は長続きせず、ヘンリーはフランス王太子ルイを支持する勢力へ加わった。1216年には教皇インノケンティウス3世によって反乱側主要諸侯の一人として破門され、ジョン王死後もただちには王党へ復帰しなかった。1217年5月20日のリンカーンの戦いで捕虜となったが、同年9月の和平による一般恩赦の対象となり、所領と地位を回復した。その後聖地巡礼に赴き、1220年6月1日に巡礼途上で死去した。伯爵位と大司馬職は息子ハンフリー・ド・ボーンへ継承された。

第2代伯ハンフリー・ド・ボーンとウェールズ辺境

第2代伯ハンフリーは母方からエセックス伯爵位も取得し、ボーン家はヘレフォード伯爵位、エセックス伯爵位、大司馬職を兼ねる大諸侯家となった。さらにその長男ハンフリーはウィリアム・ド・ブローズの娘エレノアと結婚し、この婚姻を通じてブレコン、ヘイ、ハンティントンなどウェールズ辺境の大規模な権益がボーン家へ加わった。

第2代伯自身も父と同様、王権に対して諸侯の権利を主張する政治活動に関与した。1227年には他の有力諸侯とともにヘンリー3世へ圧力をかけ、王弟リチャードへの所領付与と森林憲章の回復を求めた。一方、ウェールズ辺境ではウェールズ勢力との軍事衝突が続き、1240年代にはボーン家とモーティマー家が保持した旧ブローズ家領がウェールズ側の攻撃対象となった。1254年のガスコーニュ遠征では、国王の異父弟らが自らの配下のウェールズ兵を処罰したことに対し、大司馬としての権限を侵害されたとして抗議している。

1258年、ハンフリーはシモン・ド・モンフォール、リチャード伯、ロジャー・モーティマー(en:Roger Mortimer, 1st Baron Mortimer of Wigmore)らとともに王政改革派へ加わり、オックスフォード条項に基づく15人評議会や24人委員会の一員となった。しかしウェールズではルウェリン・アプ・グリフィズの勢力が拡大しており、国王と諸侯との対立だけでなく、ウェールズ辺境防衛をめぐる利害もハンフリーの政治姿勢に影響を与えた。

第二次バロン戦争とボーン家の分裂

1263年から国王とモンフォール派の武力衝突が再燃すると、ボーン家内部でも立場が分裂した。父である第2代ヘレフォード伯はヘンリー3世を支持したのに対し、その長男ハンフリーはモンフォール側へ加わった。1264年5月14日のルイスの戦いでは父子が敵味方に分かれて戦い、父ハンフリーは捕虜となり、息子ハンフリーも負傷した。古い人物伝にはヘレフォード伯本人をモンフォール派とする混同もみられるが、モンフォール側に立ったのは同名の息子であった。

モンフォールはルイスの戦い後に国王と王太子エドワードを掌握し、ヘレフォードを西部における重要な拠点とした。しかし1265年5月28日、王太子エドワードはヘレフォード市外での乗馬中に監視を振り切って脱出し、ウィグモアのモーティマー家のもとへ逃れた。これを契機に王党派の反攻が本格化し、8月4日のイーヴシャムの戦いでモンフォールは敗死した。若いハンフリー・ド・ボーンもモンフォール側で戦って捕虜となり、戦闘で受けた傷のため同月27日に死亡した。

このため第2代伯の後継者となったのは若いハンフリーの息子、すなわち第2代伯の孫にあたるハンフリーであった。第2代伯本人はイーヴシャム後に王権との関係を回復し、1266年にはケニルワース裁定に関する評議会の一員となった。現代の研究では第2代伯は1275年9月24日に死去したとされ、その孫が第3代ヘレフォード伯を継承した。

第3代伯ハンフリー・ド・ボーンとエドワード1世

第3代伯ハンフリー・ド・ボーンは母エレノア・ド・ブローズを通じてブレコンを中心とするウェールズ辺境の所領を継承した。継承時にはその所領の相当部分がなおルウェリン・アプ・グリフィズの勢力下にあり、ボーン家とモーティマー家は失地回復を求めていた。1276年11月15日、ハンフリーはシュロップシャー、スタッフォードシャー、ヘレフォードシャーなどにおける対ウェールズ軍の王の指揮官に任命され、翌1277年のエドワード1世によるウェールズ遠征にも参加した。1282年にルウェリンが再び国王に対して蜂起すると、ボーン家とモーティマー家はその最終的な打倒にも関与した。

ウェールズ征服後、ハンフリーはギルバート伯とブレコン・グラモーガン境界をめぐって対立した。1280年代末には両伯の軍勢による武力衝突が起こり、ハンフリー側はグロスター伯軍によるブレコンへの侵入、土地の荒廃、住民の拘束や家畜略奪などを訴えた。ヘレフォード伯側も報復攻撃を行い、争いは二大辺境領主間の私戦へ発展した。エドワード1世はこの争いを国王の裁判管轄へ服させ、両伯を処罰した。これはウェールズ征服後に王権が辺境領主の自立的な司法・軍事権へ介入していく動きの一例となった。

1297年、ハンフリーはノーフォーク伯ロジャー・ビゴッドとともに、エドワード1世の軍役・課税政策に反対する諸侯側の中心人物となった。ハンフリーはイングランド大司馬、ビゴッドはイングランド元帥であり、両者は国王自身が同行しない海外遠征への従軍義務を否定するとともに、それぞれの世襲官職に基づく軍務の遂行も拒否した。この政治危機の結果、王権はマグナ・カルタと森林憲章を再確認するコンフィルマティオ・カルタルムを認めた。翌1298年、ハンフリーは対スコットランド遠征へ参加し、フォルカークの戦い後に帰国を許された。同年12月31日、プレシー城で死去した。

第4代伯ハンフリー・ド・ボーンとエドワード2世

第3代伯の子ハンフリー・ド・ボーンは、1302年にエドワード1世の娘エリザベス・オブ・リズランと結婚し、王家との姻戚関係を結んだ。婚姻に際しては所領と爵位に対する権利を一度王権へ返還した後、相続条件を付した形で再授与を受けている。エドワード2世即位後、ハンフリーは王の寵臣ピアーズ・ギャヴストンをめぐる諸侯の反対運動に加わった。

1310年3月20日、ハンフリーは国政改革を行う21人の改革勅令制定者の一人となり、翌年の1311年改革勅令制定に関与した。改革勅令にはギャヴストンの国外追放も含まれたが、翌1312年にエドワード2世が彼を呼び戻すと、ハンフリーは反対派諸侯の武力行動に加わった。ギャヴストンは同年5月に降伏し、6月に処刑された。VCHはハンフリー自身も処刑に立ち会ったとしており、翌1313年には処刑関係者への一般恩赦が与えられた。

ハンフリーは国王の政治運営に反対する一方、対スコットランド戦争そのものへの協力を全面的に拒んだわけではなかった。1314年、スターリング城救援のための遠征に参加し、6月24日のバノックバーンの戦いではエドワード2世軍の一員として戦った。イングランド軍の敗北後に捕虜となったが、のちにロバート・ブルースの妃エリザベス・ド・バラとの捕虜交換によって釈放された。1315年にはウェールズ辺境でルウェリン・ブレンの反乱鎮圧にも参加している。

その後、ウェールズ辺境ではヒュー・ル・ディスペンサーが急速に勢力を拡大し、ボーン家やモーティマー家との対立を深めた。とくにガワーの支配をめぐり、ディスペンサーが国王を封建上の上級領主として介入させようとしたのに対し、ハンフリーは従来のウェールズ辺境慣習法によって解決すべきだと主張した。この争いは、辺境領主が伝統的に有した自治的権利に王権がどこまで介入できるかという問題とも結びついていた。

1321年、ハンフリーはモーティマー家をはじめとする辺境諸侯とともにディスペンサー領を攻撃し、武装してロンドンへ進軍した。反対派の軍事的圧力を受けた国王は一時譲歩し、ディスペンサー父子は財産没収と国外追放を宣告された。しかしエドワード2世は同年末から反撃を開始し、翌1322年1月にはモーティマー家を降伏させた。ハンフリーはランカスター伯トマスらと合流して北へ退いたが、3月16日のバラブリッジの戦いで王党軍に敗れ、橋を突破しようとする戦闘中に殺害された。この敗北によって諸侯反乱は事実上崩壊した。

第5代・第6代ヘレフォード伯

第4代伯の死後、その存命する最年長の息子ジョン・ド・ボーンがヘレフォード伯、エセックス伯および大司馬職を継承した。ジョンは健康に恵まれず、大司馬としての実務を弟エドワード・ド・ボーンが代理することもあった。二度結婚したが子を残さず、1336年1月20日に死去した。

爵位は弟ハンフリー・ド・ボーンへ継承された。第6代伯は1346年にはフランスでの軍事活動にも参加したが、生涯結婚せず、1361年10月15日に子なく死去した。一方、第4代伯の別の息子ウィリアム・ド・ボーンは1337年3月16日にノーサンプトン伯へ叙され、百年戦争で軍人・外交官として活動した。ウィリアムは1360年9月16日に死去し、その息子ハンフリーがノーサンプトン伯爵位を継承した。

第7代伯と伯爵位の廃絶

1361年10月15日に第6代伯が子なく死去すると、甥のハンフリー・ド・ボーンがヘレフォード伯爵位とエセックス伯爵位を継承した。ハンフリーは前年に父ウィリアムからノーサンプトン伯爵位を継承していたため、ヘレフォード・エセックス・ノーサンプトンの3伯爵位が一人の当主に統合された。彼はアランデル伯リチャード・フィッツアランの娘ジョーンと結婚し、1365年にはガーター騎士団の騎士となった。その後も外交使節などを務めている。

しかし男子相続人は生き残らず、相続人となったのは娘エレノア・ド・ブーンとメアリー・ド・ブーンであった。1373年1月16日、第7代伯は男子を残さず死去し、『Victoria County History』はこの死をもってヘレフォード伯爵位が廃絶したと明記している。エレノアはトマス・オブ・ウッドストックと、メアリーは後のヘンリー・ボリングブルックと結婚し、ボーン家の広大な家産は両女子相続人の系統へ分割された。しかし所領の相続と伯爵位の継承は別であり、ヘレフォード伯爵位そのものは両者へ継承されなかった。

所領と主要拠点

ブレコン城の大広間跡。ブレコンは13世紀後半以降、ボーン家のウェールズ辺境支配の主要拠点となった。
ブレコン城の大広間跡。ブレコンは13世紀後半以降、ボーン家のウェールズ辺境支配の主要拠点となった。
カルディコット城。マイルズ・フィッツウォルター家からボーン家へ継承された主要なウェールズ辺境拠点の一つ。
カルディコット城。マイルズ・フィッツウォルター家からボーン家へ継承された主要なウェールズ辺境拠点の一つ。
プレシー城跡。13世紀後半以降、ボーン家の主要な居所となった。
プレシー城跡。13世紀後半以降、ボーン家の主要な居所となった。
3枚の画像

ヘレフォード伯の称号と、伯が実際に所有・支配した土地とは必ずしも一致しなかった。11世紀の伯は複数州にまたがる広域的な伯領を統治しており、後世の世襲爵位に付随する家産とは性格を異にしていた。また、1200年以後のボーン家も、ヘレフォード伯を称したからといってヘレフォード城やヘレフォードシャー全域を私領として所有していたわけではなく、家産はウィルトシャー、エセックス、グロスタシャー、ウェールズ辺境など各地に分散していた。

11世紀の伯領

アングロ・サクソン期のヘレフォードシャーは独立した世襲伯爵領として固定されておらず、スヴェン・ゴドウィンソンの時代には複数州からなる広域伯領の一部であった。1051年以後はラルフ・オブ・マントの統治下に置かれ、1057年のラルフ死後にはハロルド・ゴドウィンソンのウェセックス伯領へ編入された。

フィッツオズバーン家の辺境支配

ノルマン征服後、フィッツオズバーンの支配はヘレフォード市周辺だけでなく、複数の城郭によってウェールズ国境を押さえる軍事的な領域支配として展開した。中心となったヘレフォード城のほか、北西部にはウィグモア城、西部のワイ川沿いにはクリフォード城、南西部にはエウィアス・ハロルド城が置かれた。さらにフィッツオズバーンはウェールズ側へ進出し、モンマス城を築いた。これらの城は一つの「居城」を中心とする家産というより、ヘレフォード平野への侵入路とウェールズへの進出路を押さえる軍事拠点網を形成していた。

1075年にロジャー・ド・ブルトゥイユが失脚すると、この集中した伯権は解体され、旧伯領の城郭と所領は複数の有力者へ分散した。とくにウィグモア城はモーティマー家の主要拠点となり、レイシー家もヘレフォードシャーと周辺地域で勢力を拡大した。

マイルズの所領

12世紀前半のマイルズ・オブ・グロスター家は、グロスタシャー・ヘレフォードシャーなどに所領を持ち、カルディコットを中心とする所領群を形成していた。カルディコット城はその行政上の中心の一つであり、マイルズはさらにシビル・ド・ヌフマルシェとの婚姻を通じてブレコンの辺境領を取得した。

1141年にヘレフォード伯へ叙された際には、これら既存の家産とは別に、ヘレフォード城とそのモット、ヘレフォード市・州裁判収入の第三のペニー、マーデン、ラグワーディン、ウィルトンの3王領荘園などをマティルダから与えられた。したがって、マイルズが「ヘレフォード伯として」与えられた権利と、カルディコットやブレコンなど別の経路から保持していた家産とは区別する必要がある。

ボーン家の所領形成

ボーン家の所領基盤はヘレフォード伯爵位の取得以前から形成されていた。初期ボーン家は婚姻を通じてトローブリッジのオナーを中心とするウィルトシャーの所領を取得し、これが初期の家産基盤の一つとなった。さらにマイルズ・オブ・グロスターの長女マーガレットとの婚姻を通じて、カルディコットを含む旧マイルズ家所領の主要部分と大司馬職に対する権利がボーン家へ移った。

1236年には母方からエセックス伯爵位とプレシー城を中心とするプレシー・オナーが加わり、家産はイングランド東部にも大きく拡大した。さらにエレノア・ド・ブローズとの婚姻を通じて、ブレコン、ヘイ、ハンティントンなどのウェールズ辺境所領が加わった。これにより13世紀後半までには、ボーン家の所領はウィルトシャー、エセックス、グロスタシャー、ミドルセックス、ハンティンドンシャー、ウェールズ辺境などに広く分散するようになった。

プレシー、カルディコット、ブレコン

第3代伯ハンフリーが1275年に家産を継承した時点で、ボーン家はウェールズ辺境のカルディコット・ブレコン、エセックスのプレシー・ウォルサム・ウォルデン、さらにウィルトシャー、グロスタシャー、ハンティンドンシャー、ミドルセックスなどに所領を保持していた。第3代伯は、ボーン家の伯として初めてプレシー城を明確に主要な居所とした人物とされる。彼は1298年にプレシー城で死去し、近隣のウォルデン修道院に葬られた。

ただし、プレシーが最初からボーン家の固定的な本拠だったわけではない。第2代伯は1266年以前にプレシーのオナー・城・荘園を次男へ与えており、12世紀から13世紀初頭にかけてはウィルトシャー、カルディコット、ヘレフォード周辺など複数の拠点が利用されていた可能性が高い。したがって、ボーン家について一つの「居城」を固定的に設定するのは適切ではない。

カルディコット城は旧マイルズ家からボーン家へ伝わった古い辺境拠点であり、13世紀以降も重要な城として整備された。Cadwは現在残る石造キープについて、1221年に所領を継承したハンフリー・ド・ボーンによって築かれた可能性が高いとしている。13世紀半ばには城壁の石造化が進み、14世紀には居住施設も整備された。

ブレコン城もボーン家のウェールズ辺境支配における重要拠点であった。Cadwによれば、城内に残る大広間は1280年頃にハンフリー・ド・ボーンによって建設された。このため13世紀末以降のボーン家については、プレシーをイングランド側の主要居所、ブレコンをウェールズ辺境支配の主要拠点、カルディコットを旧来の辺境所領の中心の一つとして捉える方が実態に近い。

14世紀の大所領と1373年以後

14世紀に入ってもボーン家の家産は広範囲に分散していた。第5代伯ジョンの死後に作成された所領調査では、エセックス、ミドルセックス、ハンティンドンシャー、ウィルトシャー、グロスタシャー、ウェールズ辺境など各地に所領が確認され、ウェールズ辺境にはヘイ、ブレコン、ハンティントン、カルディコットなどが含まれていた。1361年には第7代伯のもとでヘレフォード・エセックス系の家産とノーサンプトン伯ウィリアムの所領が統合され、複数系統に分かれていたボーン家の所領が再び一人の当主のもとへ集まった。

1373年に第7代伯が男子を残さず死去すると、家産は娘エレノアとメアリーの共同相続財産となった。エレノアとトマス・オブ・ウッドストックの系統にはプレシーやカルディコットなどが移り、のちにスタッフォード家へ継承された。一方、メアリーはヘンリー・ボリングブルックと結婚し、ブレコンやヘイなどを含む相続分はランカスター家、さらに後には王領と結びついた。このようにボーン家の家産は1373年以後も複数の大貴族家・王家に継承されたが、ヘレフォード伯爵位そのものは廃絶した。

イングランド大司馬職との関係

ヘレフォード伯爵位は、中世を通じてイングランド大司馬(英語: Constable of England)職と密接に結びついていた。ただし両者は本来同一の爵位・官職ではなく、ヘレフォード伯爵位を保持することによって自動的に大司馬となったわけではなかった。この結びつきは、12世紀のマイルズ・オブ・グロスター家からボーン家へ大司馬職が世襲されたことによって形成された。

マイルズの父ウォルター・オブ・グロスターは、おそらく1114年頃に国王の大司馬職を取得し、マイルズも父からこの職を継承した。マイルズが1141年にヘレフォード伯へ叙される以前から大司馬であったため、大司馬職そのものはヘレフォード伯爵位から発生した官職ではなかった。マイルズ家の男子系が絶えると、その長女マーガレットとハンフリー・ド・ボーンとの婚姻を通じて大司馬職に対する世襲的権利はボーン家へ移り、ボーン家はヘレフォード伯爵位を得る以前から同職を保持するようになった。1200年にヘンリー・ド・ボーンがヘレフォード伯となったことで、以後両者が同一家門の当主に併有される状態が長く続いた。

大司馬職は単なる名誉称号ではなく、軍事活動における具体的な権限とも結びついていた。第2代伯ハンフリーは1254年のガスコーニュ遠征で、自らの配下の兵士が国王側近によって独自に処罰されたことについて、大司馬としての権限を侵害されたとして反発した。また1297年の政治危機では、第3代ヘレフォード伯が大司馬、ノーフォーク伯ロジャー・ビゴッドがイングランド元帥という立場から、エドワード1世の軍役命令への反対の中心となった。両伯は国王自身が同行しない海外遠征への従軍義務を否定するとともに、大司馬・元帥としての職務の遂行も拒否した。

一方、ヘレフォード伯爵位と大司馬職が法的に不可分でなかったことは14世紀に明瞭となる。第5代伯ジョンは健康上の理由から、1330年10月26日、弟エドワード・ド・ボーンへ大司馬としての実務を委ねることを国王から認められた。ジョン自身はなおヘレフォード伯・エセックス伯であり、大司馬職の実際の遂行だけが弟へ移された。1336年にジョンが死去すると弟の第6代伯ハンフリーが爵位と大司馬職を継いだが、1338年6月12日、大司馬職を弟ウィリアム・ド・ボーンへ終身で譲渡した。ウィリアムはノーサンプトン伯であったが、ヘレフォード伯ではなかったため、この事例は大司馬職がヘレフォード伯爵位そのものとは別個に扱いうる官職であったことを示している。

ウィリアムの死後、大司馬職は再びヘレフォード伯家当主と結びつき、第7代伯ハンフリーがヘレフォード・エセックス・ノーサンプトンの3伯爵位とともに保持した。1373年に第7代伯が男子なく死去すると、ヘレフォード伯爵位は廃絶したが、大司馬職は消滅しなかった。第7代伯の長女エレノアと結婚したトマス・オブ・ウッドストックは、1376年6月10日、妻の権利によって世襲大司馬職を与えられた。トマスは後にバッキンガム伯・エセックス伯となったが、ヘレフォード伯にはならなかった。このことは、ボーン家の時代に長く併有されていたヘレフォード伯爵位と世襲大司馬職が、制度上は別個の権利であったことを示している。

歴代ヘレフォード伯

アングロ・サクソン期

ノルマン征服後

スティーヴンによる授与

  • ロバート・ド・ボーモン (第2代レスター伯)(1139年頃 - 1141年頃)
    • スティーヴンからヘレフォードの町・城・伯領を授与されたが、実際には占有できなかった。

マティルダによる1141年創設

ボーン家(1200年創設)

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