略歴
『吾妻鏡』には「八田三郎」の名前で登場し、『茂木系図』では「茂木三郎」と称したと記されているが、後者は茂木保を与えられてからの名乗りと考えられる。
建久3年(1192年)、八田知家は頼朝から下野国茂木郷の地頭職を与えられた。知家の三男であった知基が現地へ遣わされ、そこで茂木姓を称した。なお、後年の宝治合戦において、茂木氏が三浦氏側についた小田氏(八田氏の嫡流)と袂を分かって北条氏側について戦功を立てたのにも関わらず茂木郷の東半分が闕所になっているという矛盾した事態が発生しており、この事態の説明として知家が知基に与えたのは茂木郷の西半分だけで、東半分は嫡流である小田氏が持っていたために宝治合戦において鎌倉幕府に没収されたとする説もある。
建久6年(1195年)に知基は流鏑馬十六人のうち十一番目の射手として選ばれている。建仁3年(1203年)、父の知家が謀反の疑いで宇都宮氏に預けられていた頼朝の異母弟・阿野全成を、源頼家の命で下野国で誅殺しているが、当時の八田一族の下野の所領は茂木郷しかなかったため、全成が茂木にて殺害されたとする解釈から、知基が全成殺害の実行役だったとする説がある。建暦3年(1213年)の泉親衡の乱において親衡の一味に加わって幕府に捕縛されている。なお、泉親衡が源頼家の子を次期将軍に擁立しようとしたとされていることから、前述の阿野全成の誅殺を通じて頼家の信任を得ていた知基もその党派とみなされていたとする推測がある。その後、許されたようで、承久3年(1221年)の承久の乱に出陣し戦功を挙げた。栃木県芳賀郡茂木町の茂木城は知基が築城した。ただし、初期の茂木氏の本拠は荒橿神社の近くにあり、茂木城の築城は建武(1334年)以前であるとする考察もある。
茂木氏の系譜については混乱があるものの、知基が承久の乱の翌年に作成した譲状で所領を譲っている茂木知宣が知基の嫡男で茂木氏の家督を継承したと考えられている。なお、『茂木系図』を信じるならば家督譲渡から17年間健在であったこと、何らかの官位を授けられた形跡がなく通称の三郎のままであった(息子の知宣は左兵衛尉に任じられている)ことから泉親衡の乱における嫌疑が本人の不遇につながったのではないかとする推測がある(高橋修は承久の乱の戦功によって紀伊国加太荘を与えられ、正式に赦免されたとしている)。