経過
幕末の肥後藩
肥後藩では、教育方針をめぐり派閥が三つに分かれていた。藩校での朱子学教育を中心とする学校党、横井小楠らが提唱した教育と政治の結びつきを重視する実学党、林桜園を祖とする国学・神道を基本とした教育を重視する勤皇党(河上彦斎、太田黒伴雄、加屋霽堅ら)が存在した。勤皇党のうち、明治政府への強い不満を抱く構成員により、敬神党が結成された。
挙兵
1876年(明治9年)10月24日深夜、敬神党が各隊に分かれて、陸軍熊本鎮台司令官種田政明宅、熊本県令安岡良亮宅を襲撃し、種田・安岡ほか県庁役人4名を殺害した。その後、熊本城内にあった熊本鎮台を襲撃し、城内にいた兵士らを次々と殺害し、砲兵営を制圧した。
しかし翌朝になると、陸軍側では児玉源太郎ら将校が駆けつけ、その指揮下で態勢を立て直して本格的な反撃を開始。銃撃を受けて加屋・斎藤らは死亡し、首謀者の太田黒も重傷を負い、付近の民家に避難したのち自刃した。指導者を失ったことで、他の者も退却し、多くが自刃した。
敬神党側の死者・自刃者は、計124名。残りの約50名は捕縛され、一部は斬首された。政府軍側の死者は約60名、負傷者約200名。
県庁・熊本鎮台側

種田政明邸襲撃
高島茂徳邸襲撃
与倉知実邸襲撃
太田黒惟信邸襲撃
- 熊本県民会議長 太田黒惟信(脱出)
- 愛妾 澄子(脱出)
- 太田黒と澄子の子供たち2人
安岡良亮邸襲撃
- 熊本県令 安岡良亮(対策会議中に襲撃。重傷をうけ、3日後に死亡)
- 熊本県参事 小関敬直(安岡らと対策会議中に襲撃。重傷を受けて翌年死亡)
- 熊本県一等警部 仁尾惟茂(安岡らと対策会議中に襲撃。重傷)
- 熊本県六等警部 村上新九郎(安岡らと対策会議中に襲撃。負傷し、翌日死亡)
- 七等出仕兼判事 桑原戒平(安岡らの対策会議に遅れ、助かる)
- 第二屯営・一等巡査 坂口静樹(安岡らと対策会議中に襲撃。戦死)
砲兵第六大隊襲撃
- 歩兵第十三連隊・陸軍中佐 大島邦秀(南坂で奮戦したのち戦死)
- 陸軍少尉 坂谷敬一(奮戦したのち戦死)
- 陸軍大尉 塩屋方圀(坪井川に転落して助かる)
- 陸軍副軍医 堤千之(軍刀で立ちむかうが戦死)
- 陸軍少尉 小野藤吉(部下とともに奮戦したのち戦死)
- 陸軍会計軍吏補 田原貫一(奮戦したのち戦死)
歩兵第十三連隊襲撃
- 陸軍少佐 林隼之助(混乱した隊を統率して一斉銃撃)
- 陸軍大尉 豊田良作(駆けつけたのち戦死)
- 陸軍大尉 福原豊功(背中に重傷)
- 陸軍大尉 小川又次(混乱した隊を統率して反撃)
- 陸軍中尉 佐武広命(連隊旗を死守)
- 陸軍少尉補 多羅尾進(ひとり奮戦したのち戦死)
- 陸軍少尉補 松平正理(駆けつける途中に斬られる)
- 陸軍軍曹 幡穐守(武器庫奪回のため戦死)
- 陸軍兵卒 隈部幸作(連隊旗を奪いかえす)
熊本城周辺
- 七等警部 嶋田弘(自宅から県庁に駆けつける途中に殉職)
- 第三屯営・三等巡査 津田長鎮(自宅から県庁に駆けつける途中に殉職)
- 第三屯営・四等巡査 森弥(自宅から県庁に駆けつける途中に殉職)
陸軍側の負傷者については、石黒忠悳が記録した『明治九年神風党刀創図』(陸上自衛隊衛生学校彰古館蔵)に刀創の図が記載されている。
その他
桜山神社
大正期の贈位
関連図書
- 高瀬茂顕 編『熊本伝報記』内藤伝右衛門、1877年。
- 小早川秀雄『血史熊本敬神党』隆文館、1910年。
- 福本日南『清教徒新風連』実業之日本社、1916年。
- 石原醜男『神風連血涙史』大日社、1935年。 - 石原醜男(英語版:1874–1936)は決起側遺族で教育者
- 大隈三好 『神風連蹶起』新人物往来社、1975年。
- 石光真人編『石光真清の手記 城下の人』中公文庫、1978年(新編改版2017年)、第2章 神風連。
- 熊本日日新聞社編刊『熊本県大百科辞典』1982年。
- 荒木精之『荒木精之著作集:近代への叛逆』熊本出版文化会館、1994年。
- 海音寺潮五郎『日本名城伝』文藝春秋〈文春文庫〉、1977年(原著1961年)。ISBN 4-16-713547-7。(新装版2005年)、「熊本城」の項。
