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日本の実業家、投資家 (1893-1983)

山崎種二

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山崎種二

基本情報

生年月日1893年12月8日
死亡年月日1983年8月10日
職業実業家, 投資家, 美術品収集家
出生地吉井町
受賞・受章勲三等旭日中綬章
インフォボックスの全データ 8
生誕
1893年12月8日 日本・群馬県北甘楽郡岩平村坂口(現・高崎市吉井町坂口)
死没
1983年8月10日(89歳没) 日本・静岡県熱海市
出身校
群馬県甘楽郡岩平村尋常高等小学校 卒
肩書き
山種証券社長山種米穀社長辰巳倉庫社長学校法人山崎学園理事長財団法人山種美術館理事長
子供
富治
親
父・山崎宇太郎母・りん
親戚
萩原鐐太郎(妻の祖父)今井善衛(娘の夫)住田正二(娘の夫)井上房一郎(伯母の継子)
栄誉
従三位勲二等旭日重光章勲二等瑞宝章藍綬褒章紺綬褒章

山崎 種二(やまざき たねじ、1893年〈明治26年〉12月8日 - 1983年〈昭和58年〉8月10日)は、日本の相場師・実業家・教育家。山種証券株式会社(現SMBC日興証券株式会社)、山種物産株式会社(のちに株式会社アサヒトラスト→解散)、株式会社ヤマタネの創業者であり、米相場と株式相場において成功を収めた。山種美術館の創設者であり、学校法人山崎学園理事長も務めた。

生涯

生い立ち

1893年(明治26年)、群馬県北甘楽郡岩平村坂口(多野郡吉井町坂口を経て現・高崎市吉井町坂口)に生まれる。父は山崎宇太郎、母はりん。生家はもとは名字帯刀を許される農家であったが、祖父の代のとき秩父事件に際し襲撃を受け、水吞百姓同然に没落してしまったという。種二はその山崎家13代目にあたる。種二は大人に混じって道普請などの働きに出ながら地元の岩平村尋常高等小学校を卒業した。

山繁商店時代

父の従兄にあたる山崎繁次郎が東京・深川で回米問屋を営んでいたことから、1908年(明治41年)11月28日、彼を頼り上京する。この店で勤めるようになった初日に渋沢篤二を招いた義太夫の会があり、寿司を振舞われたが、山育ちの篤二は生魚を食べたことがなく握りずしを食べることができず、のり巻きばかりを食べていたことから「のり巻き小僧」というあだ名をつけられた。初任給は月80銭で、俵担ぎの仕事は重労働だったが、白飯を三食腹一杯食べられるので種二には満足な暮らしであった。熱心な働きぶりが認められ、2年目の暮れにはお仕着せを2着分与えられた。倉庫番として勤務しているとき、床にこぼれる米がもったいないと考え、主人の許しを得て鶏を飼育して20匹ほどの鶏が産む卵を1個1銭で売り、倉庫で捕獲したネズミを交番にペスト予防として引き渡し1匹2銭を受け取った。この時期に筒井商店の新倉多次郎、梅原商店の加藤兵八と知り合う。新倉は種二に米相場の見通しの立て方などを教え、米相場に関心を持った種二が主人に内緒で米相場を張ろうとしたときに、初めての注文を証拠金なしで受けてくれたのが加藤であった。生家の借金は4200円にまで膨らんでいたが、遠縁の萩原鐐太郎が保証人になったこともあり、主人の山崎繁次郎が高利貸しから借金を肩代わりし、利息をつけずに元本だけを返済すればよいこととなった。

1914年(大正3年)、上京以来初めて帰郷して徴兵検査を受けた結果、甲種合格となり砲兵として近衛連隊に配属された。入営期間は通常3年間だったが、衛生兵は2年間に短縮されるため、米取引で鍛えた暗算能力を生かして野砲照準手として中隊で1番の成績を上げ、衛生兵への転換を果たしたのみならず、外出日を利用して米相場を張った。

除隊後山繁商店に復帰したが、1917年(大正6年)1月に主人が死去してその息子が2代目山崎繁次郎を継ぐこととなり、支配人の独立もあったため種二は市場部長に就任した。同年9月30日夜、東京を台風が襲い、その高潮被害(大正6年の高潮災害)によって倉庫内の20万俵の米が浸水被害を受けたため、ひとまず腐るのを防ぐために水に沈め、順次引き上げて蒸気で蒸して天日で乾かすことで大阪方面へ菓子原料として売却することに成功した。翌1918年(大正7年)米騒動が発生したことにより、農林省は大手回米問屋7店に米の緊急集荷を指示し、その1つであった山繁商店も茨城・石川両県を担当として種二自身も現地に赴くなどして集荷に尽力した。

結婚と独立

1920年(大正9年)2月16日、萩原鐐太郎の孫・萩原ふうと結婚式を挙げる。同年3月に戦後恐慌が襲い米価は暴落するが、私生活では11月に長男・雄司が誕生している。

1921年(大正10年)相場師・石井定七の米の買い占めに対して売り向かい、さらに石井が買い集めた米の売り払いによっても巨利を得た。

1923年(大正12年)の関東大震災で山繁商店は大きな被害を受け、主人の2代目山崎繁太郎は元々商売に向かない性格だったことに加えて妹が震災死して意気消沈し商売を続ける気力を失ってしまった。1924年(大正13年)7月3日に深川佐賀町に山崎種二商店(現在の株式会社ヤマタネ)を開業。

1928年(昭和3年)高垣甚之助による米の買い占めや1932年(昭和7年)伊東ハンニによる米の買い占めがあったが、種二は売り方に回りこれらに勝利する。

1933年(昭和8年)、歴史的な米の豊作に際し、米を収める倉庫が不足することを見越し、東京・横浜の倉庫を可能な限り借上げ、倉庫を用意できず機会を逃した他業者と差をつけ、莫大な利益を上げた。この経験から倉庫業にも進出することとなり、1940年(昭和15年)に辰巳倉庫の株式の95パーセントを取得し、1942年(昭和17年)には自身が同社の社長に就任した。

1933年(昭和8年)、米穀統制法が制定され、米にも国による統制の手が伸びてくるに及び、証券取引に進出することを決定し、同年8月より営業を開始した。統制経済下では1940年(昭和15年)に日本米穀会社が設立されるに先だって正米問屋を廃業した。企業整理によって山崎種二商店は他社を統合して山崎証券として存続したが、東亜飛行機株式会社、海南拓殖株式会社、東京自動車といった業種にも乗り出した。

昭和恐慌に際して兜町と麹町3丁目の土地を購入したものの建物をすぐには建築せず、日本鋼管、浅野セメント、秋田木材、日本産業と東京電燈などの建築関連株を買い、その利益によって1935年(昭和10年)に18万円の工費で兜町に5階建、花崗岩を使用し自動エレベーターを備えた山崎証券の社屋を建築した。

1935年(昭和10年)に第二次エチオピア戦争が始まると株式は上がっていき、これを過剰な高騰と判断した山種は売りに回り、翌年の二・二六事件勃発による暴落の結果、当時の金額で500万円とも言われる大きな利益を得た。このような巨利を得たことで反乱軍と通じていたという噂が流れ、久原房之助に金を貸していたこともあり憲兵隊に取調べを受けることとなったが帳簿の調査で無実が証明された。

息子・富治が都立第四中学校に通っていたころ、校長の深井鑑一郎より教育事業に出資することを勧められたことがきっかけとなり、1940年(昭和15年)に富士見高等女学校の経営を引き継いだ。

戦後

1949年(昭和24年)に証券取引所が再開されることとなり東京証券取引所が開所されたものの、GHQにより清算取引が禁止されたことは種二らの証券業者には不本意な状況だった。翌年三菱化成工業が旭硝子、新光レイヨン、日本化成の3社に分割(財閥解体)されるのに伴い、旧三菱化成工業株主に割り当てられる新会社の権利株が高騰し、最終的に買い方の小池厚之助(山一証券)・玉塚栄次郎(玉塚証券)と売り方の高橋要(大阪証券取引所・江口証券社長)・山種の解け合いに至ることとなった。山種は親株を買って権利株を売るサヤトリをしていたため損害は大きなものではなかったものの、種二自身が負け戦に終わったと回想する結果となった。

1950年(昭和25年)、米の食糧配給が緩和されて米の販売が再開されるとの報を受け、12月26日に山種米穀株式会社を設立し、米の卸売に再び進出した。

1952年(昭和27年)に東京穀物商品取引所が開設されると初代理事長に就任した。翌1953年・1954年はアズキが不作で相場が高騰、売りに回った山種は輸入物にも手を回して現物の確保の目処をつけたが、過当投機の抑制のために理事長として証拠金を上げたことなどが児玉誉士夫の介入を招き敗北し、理事長の任期終了とともに退任した。この「小豆事件」は小説『赤いダイヤ』の題材となった。

1953年(昭和28年)3月のスターリン暴落に際しては、異常なまでの高値を記録する株に「売りの山種」として勝利を収め、その結果東京海上日動については第2位の大株主となるに至った。この暴落の後株価は低迷し、出来高も大きく経る中、山種は造船株を買い集めることで高度経済成長期に大きく勢力を伸ばすこととなったが、それは「買いの山種」への戦略転換でもあった。

1957年(昭和32年)、神武景気の後で公定歩合の2度にわたる引き上げなどの金融引き締め策により株価は低迷したが、山種は「兜町は宝の山」として株の買い時であるという宣伝を行った。

1965年(昭和40年)の証券恐慌に際しては、高橋亀吉の助力を得て福田赳夫大蔵大臣を説得し国債発行による景気対策に踏み切らせた結果株価は反転回復し、これが種二の現役最後の大相場となった。この時期に建設を進めていた山種ビルは1966年(昭和41年)7月7日に落成式を実施。その席上で種二は山種証券社長を次男・富治に、辰巳倉庫社長を三男・誠三に譲ることを発表し引退を表明した。

山種美術館設立と晩年

1966年(昭和41年)7月7日、山種ビルの竣工と同日、山種美術館の開館式典が高松宮宣仁親王・同妃を迎えて行われた。

そもそも種二が美術への興味を持つようになったきっかけは主人であった初代山崎繁太郎が絵が好きで、その出し入れなどを手伝わされたことであった。はじめは床の間に飾るのに掛軸が欲しいと思い、酒井抱一の作品を購入したものの、それが贋作だと判明したことから自分に目利きのできない古画の購入を諦めて主に新画を買うこととして、徳岡神泉や菊池契月ら将来性のある画家に揮毫をしてもらった作品がのちの山種美術館の基礎となった。また種二は横山大観から株の相談を受けて宝酒造などの銘柄を勧めるなど個人的に親交があった。その大観から「金儲けも立派な仕事だが、その金を使って世の中のためになることもやっておいたらどうですか」と言われたことが美術館設立の動機となったという。

種二は晩年は熱海の別荘「嶽心荘」(横山大観の命名)で過ごすようになった。

1983年(昭和58年)8月10日に熱海の別荘で死去。戒名は天寿院殿精山種徳大居士。葬儀は9月2日に山種各社の合同葬として築地本願寺で営まれ、9月4日に故郷の吉井町でも町民葬として行われた。遺骨は多摩墓地と吉井町坂口の墓地に分骨して葬られた。

人物

種二・ふうの寄進による代々木八幡宮一の鳥居。
種二・ふうの寄進による代々木八幡宮一の鳥居。

寄付

種二は故郷の群馬県多野郡吉井町(現・高崎市)に多くの寄付を行っている。

最初に郷里に寄付したものは橋であった。徴兵検査のため帰郷した際増水で川止めにあったことと、婚約後にふうを坂口の家に連れて行く時に彼女が馬で川を渡らなけらばならないことに不満を口にしたからとされる。戦前期に鏑川に塩畑堂橋と星川橋を架橋した。

故郷への寄贈は1963年(昭和38年)に吉井町小棚の弥勒寺に梵鐘、1970年(昭和45年)に坂口神社、1971年(昭和46年)に吉井町営バス、1973年(昭和48年)に岩平小学校体育館、1980年(昭和55年)に町立山種図書館を寄贈した。これらの功績により吉井町名誉町民となった。

東京でも1961年(昭和36年)に代々木八幡宮に鳥居を寄進している。

「信為万事本」

深川の正米取引所には、町田忠次の筆による「信為萬事本(信は万事の本を為す)」という額が掲げられていた。種二はこの言葉を座右の銘とし、川合玉堂に依頼して揮毫してもらった額を社内に掲げていた。この言葉はヤマタネグループの企業理念となっている。

年表

家族・親族

家系図

萩原鐐太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
均平山崎宇太郎
 
細谷りんゆき
 
 
井上保三郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ふう
 
 
種二水上達三
 
津禰房一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鈴木三千代
 
 
 
 
 
森永太平
 
 
 
 
住田正一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
繁子
 
今井善衛富治
 
弘子誠三
 
初恵貴美江
 
正二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
元裕

妻子

著書

  • 『そろばん』 日本経済新聞社、1972年
    • 『そろばん―売りのヤマタネ半生記』パンローリング、2009年 ISBN 978-4-7759-3066-3

伝記

  • 城山三郎『百戦百勝 働き一両・考え五両』 角川文庫、1979年 - 山崎種二をモデルにした伝記小説
  • 筆内幸子『相場の偉人・山崎種二伝』 善本社、1985年
  • 尾崎芳雄『山崎種二: その生涯と事業』 山種グループ記念出版会、1989年
  • 幸田真音『天稟』KADOKAWA、2020年

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